牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

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資料・・・うわん

次の漫画のネームをしてますが
その作品では主人公が
ドゥカティを乗り回すアクションがあるので
早速どぅかティのプラモデルを購入作りました
こんなとこ最後は見えなくなるだろう
というくらいなとこも作らなきゃならねい
こんなの
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作る楽しみですだんだんできてくる
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これね、すごいちっちゃいんですよ作るのに3時間かかったむー
しかし完成した快感はいいねいむ
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で、できてはしゃいでたら
落として壊れたむー
うわーん
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by qpqp1999 | 2009-07-22 17:24 | 漫画

600アクセス!!!

私のGIFアニメ作品が一月ほどで
600アクセスを突破しましたむ
観てくださった皆様ほんとうにありがとうございます。クリックすると大きくみれます
パラパラマンガ CZ75 少女 2
一応漫画家だからなのか?!?!
それにひきかえ私のライヴ動画は

一年たってもまだ400アクセス とほほほほー
一応ミュージシャンなのだがむー
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by qpqp1999 | 2009-07-19 13:27 | 動画
聖霊降臨後第6主日礼拝説教 マルコ福音書4章26-34節
 動物に限らず、実は草木や花もまた命の宿っているものであることはもはや常識であろう。ただ草木や花は「痛い」とか「殺さないでくれ」とか言わないからその生命の価値は低く見積もられているのではなかろうかと思う。命の問題でいえばそれはゴキブリや蚊に至るまでまさに命をもっているものであるのに、それが害虫として人によって抹殺される運命にある。この命の原始形態は現在では、それがどのように発生したのかについては仮説でしかなく明確な論評がなされていないのは、まさに神の領域であるからであろう。命。生きるということについて追求すると最終的には謎になっているのは以外に興味深いものである。イエス・キリストはこの命の営みをたとえに用いられた。おそらくは、これは史実にさかのぼるものであろう。
 人類史上に対する主の介入という点において、キリスト教は他の宗教を凌駕しているといってもさしつかえないだろう。最古のもので2世紀のローマ帝国の文書に、しかも単に処刑されたとだけしか書かれていない人物イエス・キリストである。これはある意味とても重要だ。もしイエス・キリストが歴史の記録に残りもしない者であるならば、なぜそのような人がポンティウス・ピラトゥスによって十字架刑に処せられねばならなかったのかその原因がわからない。おぞらくは、イエス・キリストの活動期間が僅か3年程度であり、しかし、奇跡行為を多く行い、ほんの一時的ではあるがユダヤ教保守勢力の脅威になったことはユダヤ教のタルムードに示されている通りである。「安息日をおろそかにし、魔法を用いて奇跡を行った」とある。これは実は見逃せない記述で、人はいつの世でもそこに奇跡を目の当たりにしなければ、その人についていこうとはしない。今日であってもいかに道徳的に素晴らしい教えを説いたからとて、その人についていく人がユダヤ今日の最高法院サンヘドリンの脅威になるわけがない。つまり、イエス・キリストについての歴史的な遺産が皆無であるのは、その活動期間と活動地域すなわちガリラヤであったことに起因するのではなかろうか、しかし、実際にはそのわずかな期間で多くの人を惹きつけたのはまさしく、奇跡の行為があったからとしか説明のしようがないし、そしてそのよう奇跡だけに期待をよせていた群集だったからこそ、イエス・キリストが夜陰にまぎれて逮捕された時に一番弟子のケファから逃げ去っていったのも納得がいく。
 しかし、イエス・キリストの奇跡は2000年前の話ではなく、現代の話であることを私たちはまずもって認識すべきであろう。それがまさに今日の聖書箇所の発するメッセージなのだ。今日の箇所で誤解されやすいのは「神の国」という言葉である。このままだと「天国」としか認識できにくくなってしまう。しかし実際にマルコはあえて天国とは書かずトゥーセオンバスィレイアと書き「神」の「支配」「主権」「君主」と書いているのである。つまり単なる天国話ではなく、わたしたちの人生、人類の歴史に望む「神の支配」を語っているのである。植物の発生をたとえにしてイエス・キリストは語る。私たちが「寝起き」している間に「種は芽を」出すのだ。この「芽」はプロデュースするという能動的な意味がある。そして「どうして」と訳されているのはウースで「地球」とか「土地」という意味がある。ここでの決め手となる「豊かな実ができる」はプレーレーで「満タン」のといった単語が使われている。更に、「実が熟すと早速釜を入れ」とあるがこの「入れ」はアポスレイで「送る」という意味がある。即ち、私たちの信仰や喜びや恵みというものは、私たちの領域を越えた主の支配のうちに豊かになるよう手引きされ、導かれ、最終的な終末論においては収穫にいんをふんでまさに天国に送られるという素晴らしいメッセージがここに記されているのである。私たちが何行苦行をして勝ち取るものではなく、主の方から私たちを育て、救って下さるというイエス・キリストならではの教えである。なるほど、これであれば、確かに律法によって儀とされるというファリサイ派や神殿行事で儀とされるサドカイ派と真っ向から対決する姿勢になる。しかも口先だけではなく、実際に奇跡をまきおこしての宣教だったから、それはユダヤ社会の保守的な人から見たら殺したくもなるわけである。歴史文献に残らなかったのはイエス・キリストに従っていった者は皆力も何もなく弱い者であったからであろうし、一度イエス・キリストの処刑となるやいなやみな逃げ出した名も無き者ばかりだったからであろう。だからこそ、今日の箇所は大きな意味を持つことになるのである。
 まさにここである。歴史に名も無きガリラヤの改革者の教えは、歴史から抹殺されたであろうか。とんでもない、今や世界一の宗教勢力となっているのだ。これは一体何事であろうか。主イエス・キリストの言ったとおりではないか。だからこそ、主イエス・キリストは最初は小さき者であったのだ、まさに小さき者として十字架で処刑されたのだ。ところがそれを完全に挽回してあらゆる宗教勢力をなぎ倒してついにはローマ帝国までをも支配するに至った歴史的事実はまさにに主の歴史的介入をしめしているといえるだろう。
 主の意思は何がどんなに困難で悲惨であってもその目標は大どんでん返しで勝利し実現するのだ。歴史的にまったく無視されたイエス・キリストの活動において始まった主の支配がやがて世界大の規模で完成すると誰が思うことができただろう。ここに今日のすばらしい恵みが示されているのである。
 「神の国」とは単純に天国を指すのではなく、私たちの生活、人生に介入してくる「神の支配」を意味するのである。それは私たちが努力するからなるのでなければ、なまけていめるからできないものでもない。まさに一方的に主からの力が私たちに及ぶのである。私たちは、その恵みに感謝をもって信仰をいただくしかないのだ。
 「からしだね」では「空の鳥」とあるがこれはオラーヌーで「天国」である。また「大きな」はメガロウスで「偉大な」である。まさに天国の鳥が憩う偉大な主の業のもとに私たちはいるのである。主の「神の国」の秘密は今は小さなからし種のように世界から隠されていても、やがて世界に明らかにされるのである。
 だから私たちは時に苦しみ、悲しみ、絶望もする。しかし、その危機的な状況の時にこそ私たちは覚えるべきである。その苦しみ、悲しみ、絶望は主イエス・キリストの説いた
小さなからし種であるということを、あるいは蒔かれた種であるということをそれは、私たちの思いをはるかにこえて大いなる栄光につながるのである。
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by qpqp1999 | 2009-07-19 13:16 | キリスト教