牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

<   2009年 04月 ( 8 )   > この月の画像一覧

カミングアウト

カミングアウトとは
たとえば性同一性障碍の人が
「私は性同一性障碍です」と人に明かすことです
レズビアンやゲイの方も同じです。
私はといえば
ウィキペディアに「漫画家として名が知られている等として男性名のまま活動している」
とか書かれちゃっているが
一番の理由は
地元で地元のキリスト教伝道をしているから
みんな私のことを新生ルーテル教会の
「太郎先生」
と認識しているからなのでした
尤もホルモン治療してるし、長髪だし化粧とかするから
みんなうすうす気付いているが
「私は性同一性障碍です」とカムアウトしたことはなかった
だが
こないだうちの教会主催で行っている
「子ども料理クラブ」
というのがあって
b0130652_13164325.jpg

これは私の父が元、心斎橋のオメガハウスというフランス料理店のシェフだったので
そのスキルを活用して地元の子どもたちと
料理を通して、保護者の大切さや自然の恵みを学ぶという活動をしているのでした。
画像のシェフの格好しているのが父
b0130652_138167.jpg

んで、私がスタッフとして入ったら
ずっとこの活動に参加してくれて、クリスマスやお正月によく来てくれる
女の子たちがにこやかに手をふって迎えてくれる
この子たちには
「男なの?女なの?」と聞かれていて
「女にきまっとるやろ」とか言っていたが
いいかげん付き合いが長いと、もはや通用しないし仲良くなってるし
ちゃんと説明したのだった
「性同一性障碍といってね、体は男だけど脳が女なのです」と
すると子どもたちは
すんなり受け入れてくれた
「はるな愛と一緒なんやなあ」とにこやかに言う
その直後の私画像でござい松
b0130652_13124335.jpg

そしてこの日のレシピは
竹の子ご飯
b0130652_13152160.jpg

厚焼き玉子
クリームパフェ
b0130652_13155556.jpg

でしたむー 
美味かった
一杯食べてしまったのでスマ―ティーに入って
3キロしぼったむー体重とうとう
51キロになったむー
by qpqp1999 | 2009-04-30 13:21 | 性同一性しょうがい
復活後第二主日礼拝説教 ヨハネ福音書21章1節~14節
 貴重なヨハネ書のテキストの日である。今日の箇所は解釈の余地もなく完全なる後足しの記述であり、本来のヨハネ書は明らかに20章で終わってることは20章30節以降で「本主の目的」としてエンディングになっている事を読めばすぐにわかる。しかし、マルコ書の後足しの部分とは異なり、この後足しの部分は完全に恣意的に後からつけたことを自覚して書かれており、またヨハネ書の特徴や主義を知っていて書かれていることからその重要性については様式史が発展し福音書の否神話化が盛んになってからも衰えることはなかった。
 まずもって、ヨハネ書の特徴である「イエスの愛しておられた」「弟子」についての言及があることに気が着く。そして、あくまでも弟子ヨハネという名は出てこないままになっていることもヨハネ書の特徴を尊重している。またペトロの弟子の地位についてもヨハネ書の特徴通りにきちんと位置付けられている。
 また、弟子たちの前に現れたのが「三度目」として、20章までの記述の流れを損なわないようにしていることも大事であろう。
 ヨハネ書にのみ現れる12弟子の中の一人「ナタナエル」が登場していることもあげられる
 イエス・キリストの復活後の顕現については全ての福音書において相互に食い違いを見せているが、その最も顕著な部分はイエス・キリストがエルサレムで顕れたのか、ガリラヤで顕れたのかということである。マルコ書ではイエスの顕現についての記載は無いが、「先にガリラヤに行かれる」とガリラヤでの顕現を主張している。伝承としてはイエス・キリストのエルサレム顕現とガリラヤ顕現と二つがある。どっちが正しいかという議論はあまり意味がない。二つの伝承があり、それぞれに成り立つという捕らえ方が妥当であろう。ヨハネ福音書のこの後足しの立場はエルサレムにおける顕現が20章で記されていることを前提としている。
 今回の顕現は「イエスはティベリウス湖畔で」「ご自身を現された」とある。ティベリウス湖というのはガリラヤ湖の別称であるから同じ湖である。なので、今回のイエス・キリストの顕現物語はガリラヤでのことになり、ヨハネ書の脈略からするとイエス・キリストはエルサレムでもガリラヤでも顕れたということになる。
 物語は漁師の大漁奇跡の物語の形をしている。これはルカ書5章に並行記事というよりは似た物語があるという認識が主流である。私個人的には平行記事としてもいいのではないかと思うほどに似通っているのだが、しかし確かに大漁というそれ以外は、その描写と出来事がかなり異なっているので平行記事としてとらえられないのであろう。それでも、大漁奇跡の伝承としては似た伝承であり、奇跡伝承のカテゴリーでいうなら同じカテゴリーになるはずであるし、その点を主張する神学者も少なくない。
 私個人的にはこの箇所はとても思いいれのある箇所である。ルカ書の大漁物語とちがい、ヨハネ書のほうはよりドラマチックである。ペトロたちがいつごろ漁に出たのかは記されていないからわからないが、「その夜は」と「夜が明けたころ」とあるから一晩中かかって漁をしたことになる。しかし「何もとれなかった」のだった。その「明け」方にイエス・キリストが「岸に」顕れたのだった。そして弟子たちに話し掛けるがこの時点で弟子たちは「それがイエスだとは分からなかった」のである。これも復活後の顕現物語の伝承の特色である。それゆえに福音書にある大漁物語はルカ書とヨハネ書だけであり、ルカ書の方がはるかに早く書かれているものの、伝承としてはヨハネ書の大漁物語の方が古く、大漁物語は元々はイエス・キリストの復活顕現伝承であったと指摘する神学者もいる。
 私がこの物語で特徴的なところとしてイエス・キリストが「舟の右側に網を打ちなさい、そうすればとれるはずだ」とおっしゃることがあげられると思う。またこの発言もとても象徴的である。一晩中かかってとれなかったのだから、右に網を打とうが、左に網を打とうが、あるいは後ろに打とうがもはや結果は同じであることは、人間の常識からすれば明らかである。ところが弟子たちはそれに応えて網を打ったすると「もはや網を引き上げることができな」いほど取れた、「153匹」という数はティベリウス湖に生息する魚の種類全てを指し、これはユダヤ民族だけに留まらぬあらゆる民族への宣教的視点であるという解釈は一般的である。また、ここでイエス・キリストは「パンを取って弟子たちに与えられた」とあるがここに聖餐を読み取ることは妥当であろう。そこで、私はどのようにこの箇所を惠みとしていただくだろうか。やはりそれは復活の主イエス・キリストの私たちに対する顕現であるという一言につきると思う。復活の主イエス・キリストは今日この聖書箇所を通して私達に顕れてくださったのだということを大きく打ち出したい。これは2000年前の話ではなく、今この箇所を読む私達に起っている奇跡なのである。そしてこの顕現は漁がうまくいかなかった人たちを驚愕させるほどの大漁という実現を伴って顕れるのだ。
 私が性同一性障碍の発現に苦しみ、大変な辛酸をなめた時、自殺を図ったことがある、幸いにして失敗に終わったがちょうどその時、テレビがつけっぱなしになっていて、そのテレビの中から主イエス・キリストが言った「舟の右側に網を打ちなさい」と。私は自殺に失敗して身動きとれない激痛の中にいたが、たまたま放送されていたイエス伝の映画の中でこの聖書箇所が語りかけ、そして今日もまた新たに語りかけてくれている。生ける復活の主イエス・キリストの言葉として。私達は時にうちひしがれ、望みを失う。病気にかかれば苦しいし、怪我を負えば痛む。だが、それらは決して不幸なことではない。もし病気や怪我に苦しむ人たちのことを不幸だというのなら、それはそこに苦しむ人への侮辱である。苦しいし、悲しいし、痛いかもしれない。だが、それは決して不幸なことではないのだ。主イエス・キリストの復活の惠みによって、新しく私達も生まれ変わる時、あらゆる世にいう「不幸」というものは「希望」というものに変化する。苦しいからこそ希望がある。悲しいからこそ未来がある。痛いからこそ立ち上がるのだ。それは我を張っているのではない。主イエス・キリストの復活によって全ての苦しみは変化させられるのだ。それを私は体験した。今、目の前にある恐怖や危機に私達は勇気をもって、「網を打」とうではないか。それが右になるだけで復活の主イエス・キリストの奇跡が顕現するのだ。
by qpqp1999 | 2009-04-30 10:47 | キリスト教

両手にアイドル!!!

映画の原作の打ち合わせと
コミックソングの打ち合わせで
総合芸能スタンドアップのKAZZさまと
お話ししてきました。
最初はスタンドアップのスタジオで映画の打ち合わせしていて
「核弾頭」で有名な林一嘉監督の作品で盛り上がり松
その後
リビングに場所を変えようとしたら
事務所のアイドルユニット
歌舞姫ちゃんたちがいるぢゃん!!!
アイドル様とお話しできるとは
こりゃいい日になったならーと
記念シャメをKAZZさまに撮ってもらう
b0130652_15445819.jpg

なんか自分すげいデカク映っているが
これは
歌舞姫の
水口 明日香さまと
洞口 未来さまが
顔とかめちゃめちゃ小さいからなのだむへー(ё。ё)/
コミックソングの打ち合わせが終わってから
今度は
名古屋一のミックスバー
T’Sバー
のママの
きくちゃん♂♀さまのとこに
遊びにいく
しかも彼女は今度のNLGRの冊子のボランティアで
校了間際ですんげい勢いで
アドビのイラストレイターと格闘していらした
めちゃめちゃ邪魔しに行ってしまったけむー
んで
うんめい焼き鳥屋できくちゃん♂♀さまと夕食してから
こんどはNLGRの企画しているライズの事務所へ
ひさしぶりに
超イケメンな
チョーさんと
コキンさんと
話す
とかしてたらもう終電ぢゃんか
ぎりぎりセーフだったが
しかしもうちょっとでネット難民になるとこだったむー
by qpqp1999 | 2009-04-25 15:52 | 音楽
復活祭礼拝説教 マルコ福音書16章1~8節
 マルコ福音書のエンディングの部分では9節から最後までは後世の書き足しであることはもはや常識である。新共同訳ではわざわざ「結び」と題して区別している。この付け足された部分がいつ頃なのかは議論があるが遅いものだと2世紀という説もある。あらゆる註解書は8節までと9節からを区別している。
 尤も際だって異なっている点は「朝ごく早く」に行動を起したのは三人の婦人なのに対して、9節以後では「マグダラのマリア」一人になってしまっている事。また主の知らせを受けたのに三人の婦人は「だれにも何も言わなかった」のに対して9節から後では「マグダラのマリア」は「人々」に「知らせ」ている。また細かいことを指摘しだしたらきりがないほどにこの二つの部分はかみあっていない。註解書によっては、その註解書が相当な学問的権威をもったものであっても、もはや9節から後は問題にしていないものもあるほどである。
 イエス・キリストが復活されたのは「週の初めの日」とあるためにキリスト教は、元々ユダヤ教のナザレ派であり週の最後の日、土曜日を安息日としていたがそれを改め日曜を主日として礼拝するようになった。
 日曜日が復活の日であるため三日前の金曜日がキリストの十字架の処刑の日となり木曜日が最後の晩餐をした聖木曜ということになる。
 言うまでもなくイースター復活祭はキリスト教にとって最も重要な祝祭日である。イエスキリストが人類の罪を贖う犠牲となって十字架につき、そして復活してその栄光と贖罪のしるしを現されたことを記念する日だからである。この祝祭日が主日に行われるように定着したのは紀元2世紀ごろである。それまではユダヤ教のしきたりに従いニサンの月の14日の過ぎ越し祭に復活を記念していた教会もあった。キリスト教が教会組織として成長するにつれ、この祝祭日は「パスカ論争」といわれる事件等で現在の主日に祝われるようになった。復活祭をいつ頃から「イースター」と呼ぶようになったかは定かではないがその名の由来は意外に異教のものであることはあまり知られていない。「イースター」はゲルマン神話の女神「エオストレルン」または春の名月「エオストレ」からきている。イースターエッグも死からの復活の象徴という説明がよくなされるけれども、もともとはこのゲルマンの祭りの習慣だったし、「イースターバニー」うさぎはゲルマンの多産祈願の象徴であった。
 今日は世界中でこのイエス・キリストの復活を記念する復活祭の礼拝が行われている。日本でこそマイノリティーな宗教であるけれども、世界人口の四割がキリスト教であるからそれこそ今日は世界の祭典の日ということになる。
 ところが、特にキリスト教があまり定着していない国ではこのイエス・キリストの復活という出来事ほど、荒唐無稽で信じるにはあまりにハードルの高いものはないのではなかろうか。小さい頃から教え込まれていればそれを信じるようにもなるかもしれないが、そうでない場合、一人の人が十字架で処刑され三日の後に甦ったというのは、信じるほうが奇跡的といえるだろう。そして、その点こそがまさに今日の聖書箇所を含め四つの福音書が、それこそ奇跡的に一致して主張している点であることは見逃すわけにはいかない。そもそもイエスの伝記のように勘違いされている福音書は実は典礼書である。書かれた年代も紀元60年から1世紀の間という長い時間、しかもイエス・キリストの処刑が起原30年頃であればもう一世代も二世代もたってしまったから書かれたものばかり。福音書記者たちの書いた場所や年代、状況、そして用いた伝承がちがっているから福音書によってその内容がおのずとかみ合わないし、そこに歴史的伝記を求めるならば相互に矛盾しているためにその信憑性の無さにがっかりすることになる。今日の復活の物語にしてもマルコ書では三人の婦人が墓に赴くマタイ書では二人の婦人、ルカ書では3人以上の婦人でその中心的な三人の一人の名前が違う、ヨハネ書ではマグダラのマリア一人である。一番大事な復活の物語がこんなふうではと思うかもしれない。しかし、この食い違いこそがまさに歴史的な裏づけになってることは意外に気付かれていない。これだけ相互に矛盾しているのだから復活物語は作り話であるという主張もできるわけだが、これだけくいちがいながらもこのかけ離れた四つの福音書がピタッと一致して主張しているのはイエス・キリストの遺体がおさめられた墓に行ったのは「朝」であり、「墓」は「空」であったという点なのだ。
これだけ経年があり、時代も場所も背景も違う中で書かれた書物なのに、この点に関しては不思議なほどに一致している。一つくらい別の復活の仕方が出てこなければ逆におかしいくらいの問題なのに、この四つの福音書の一致は、その真理の底深さに畏れを抱くほどである。「空」の「墓」これほど奇妙な光景はないのではなかろうか。中からイエス・キリストが出てくるとか、なんとかしてくれればもっと神話的だったのに、福音書の中であれだけ荒唐無稽な奇跡行為を詳細に記されているのに、復活の物語になったとたんに「空」の「墓」という、無言の勝利宣言が私たちに言い渡されるのである。まさにハレルヤだ。そして最古の福音書マルコ書の最後の部分はもっともっと私たちを神秘と真理の世界に引き込んでくるマグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメと後の教会の中心的な立場になる婦人たちはこの「空」の「墓」と言う現実の前に「震え上がり、正気を失っていた。そしてだれにも何も言わなかった」のであり、そこでこの福音書はエンドとなっている。たしかに、続きがあったのが損なわれたとか、書きかけだったとか仮説はたてられるけれども結果としてこのような終わり方になったことは主の読者に対する介入があるだろう。即ち、主イエス・キリストの死からの復活というのはただでさえ常識としては到底受け入れられない話であるのに、私たちに与えられのは「空」の「墓」というモチーフ、そしてそこに直面して逃げ出す証人たちという極めて常識的な物語なのだ。この福音書のエンディングは2000年近く経過した今の私たちを、2000年前の「空」の「墓」の前に連れ戻すのである。そして復活したイエス・キリストは姿なき復活者として私たちの人生に歩み寄ってくる。そして自らを罪からの救い主として私たちの口には言すことの難しい秘密として経験するのである。死からの復活など有り得ない事が、不思議な真理として私たちの人生に救いと希望の現実となって現れてくるのである。あとは体験するだけである
by qpqp1999 | 2009-04-14 21:54 | キリスト教

イースター

イエス・キリストの復活祭でした
恒例のイースターエッグを作ります
b0130652_22363194.jpg

ゆでて着色ラッピング
b0130652_22351724.jpg

今日のミサではゴスペルクワイヤーのえんそうがある
説教壇のうしろにドラムを設置
b0130652_22382826.jpg

今年も卵探しを子どものイベントでしたのだが
はじめての子たちが
「男なん?女なん?」
もろ、男声で
「女にきまっとるやろ」
子ども
「彼氏とかおるん???」
子どもは素直だむー
b0130652_22543446.jpg

by qpqp1999 | 2009-04-12 22:40 | キリスト教

聖金曜日

今年も聖金曜日がきた
イエス・キリストの復活祭が日曜の主日なのは
イエス・キリストが復活したのが週の最初の日と聖書にあるからだ。
逆算するとその三日前、金曜日にイエス・キリストは十字架で
処刑されたことになる。
今日はその記念日だ
毎年なんだけど、イエス・キリストが息を引き取ったのが午後3時ごろ
だとルカ書にあるからその時刻にあわせて毎年
「パッション」
を観る。メルギブスン・・・いい監督だむー
何度観てもなかなかいい
ただローマ兵のロリーカセグメンタ―タという甲冑が皮なのは
時代考証としてイマイチなんだよな・・・

汚れた金属みたいなのでやってほしかった
いつか私がやるむー
ちなみにイースターの日はどうやってきめるかというと
春分の日の最初の満月の夜の次の日曜である
今年は聖木曜がそうだった
画像がありますこんなに綺麗な満月です
b0130652_18374641.jpg

そして聖木曜日礼拝のため
ミサを行う
教会と満月のツーショット
b0130652_18385118.jpg

今年の私の教会のイースターでは
ゴスペルクワイヤーが
クインシージョーンズ編曲の「ハレルヤ」を歌う私は司祭の格好のままでドラムをたたくむー
身が引き締まるねい
by qpqp1999 | 2009-04-10 18:43 | キリスト教
四旬節第5主日礼拝説教 ヨハネ福音書12章36~50節
 この箇所の最初の部分を読んでみると、途中から突然はじまっているかのようだが、実質、この節36節bから43節は2章からこれまでの総まとめである。だが、その内容はこれまでの苦労が水の泡になってしまったというような内容になっているところが特徴的である。ついこないだまで熱狂的にイエス・キリストを「なつめやしの枝をもって迎えに出た」「大勢の群集」はいなくなってしまうのである。
 ヨハネ福音書ではイエス・キリストがエルサレムに迎えられた時、「大勢の群集」の歓迎振りに、イエス・キリストと敵対する「ファリサイ派」の「人々は」「見よ、何をしても無駄だ世をあげてあの男について行ったではないか」と嘆いている。そのくらい、イエス・キリストの当初の人気は凄いものだった。それが一週間もたたないうちに人気はなくなり「大勢の群集」は「殺せ殺せ十字架につけろ」と言うように変わってしまうのだ。
 確かに人の評判や人気というもの、世論というものは意外に簡単に変わってしまうことは様々な歴史が証明している。また、私たちの個々人の付き合いにおいても、ついこないだまで親友であったのが、ささいなことで絶縁状態になることはよくあることである。人の移り気の展開の大きなことといったら例にことかかないものである。私自身も性同一性障碍であることを公にしてからというもの、それは散々な事になったものだし、多くの人は私との関係を絶っていった。それでも、尚、私と深いかかわりをもってくれていた人でさえも、何の理由かわからないまま、その関係を終えてしまった人もいる。そういう体験は誰でもがもってるものであろうから、その意味で最初の区分、節36節bから43節はより身にしみて読むことができるのではないだろうか。
 ヨハネ福音書の物語の流れでは、「群集」の期待に反して、「地に落ちて死ななければ」とか「私をこの時から救ってください」とか言い出すものだから人気が落ちてしまったということになっている。エルサレムの入場こそは華々しいものだったのが、一点して受難の色彩をおびてくるや人々はイエス・キリストから去っていったのだった。
 ここに四旬節、受難節における私たちのあり方も一つ示されているのではないだろうか。四旬節になると、私たちのために苦難を受けられた主イエス・キリストをしのび、また心にしっかりとおさめ、謙虚に自らを律さねばという風潮にキリスト教の中ではなっていく。しかし、ヨハネ福音書はそうであっても、尚、やはりイエス・キリストから離れ、イエス・キリストを否定する私たちの、できれば認識したくないあり方を改めて追及してくるのであり、私たちはこのヨハネ福音書の主張に心を開くべきであろう。
 記者ヨハネはここに預言者イザヤを登場させる。イザヤといえば、それはもう大預言者であるが、今日の箇所で引用されているイザヤ書6章のように「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕はでれに示されましたか」という嘆きの預言の成就を主張しているのである。つまり、私たちがどれほどにイエス・キリストから遠のき、否定している生活をしているかという現実を真摯に受け止めることこそ、四旬節、受難節におけるあり方なのではないだろうか。
 誰しも、自分の見たくないあり方に対しては中々向き合わないものであろう。もしそんなことばかりしていたら、それこそ精神的にまいってしまうだろう。だから人はできるだけ自分を色々な方法で正当化しようとするし、そうしなくてはいられないものなのだ。その姿こそがまさに罪の現実であり、ヨハネ福音書が示しているイザヤ書の預言の成就であり、イエス・キリストの受難の出来事そのものであることに気付かされるのである。
 人とは、どうあがいても、そういう存在であるという現実、ここに記者ヨハネはイザヤ書の預言の成就として鋭く福音の真理をつきつけてくるのである。この預言の成就はなにも紀元0世紀に起こった過去のことではない、今、この聖書箇所を読んでいる私たちに怒っている状態であることを、この箇所から聴きとるべきであろう。「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち返らない。わたしは彼らをいやさない」である。実は記者ヨハネが他の福音書よりも強烈にこの主を否定する私たちの姿を描くのには歴史的な背景がある。他の福音書の時代はまだキリスト教はユダヤ教のナザレ派として存続していたが、ヨハネ福音書の時代はヤムニア会議というキリスト教をユダヤ教の異端宗教として定め、シナゴーグ、社会共同体からの追放を決めた時期であり、多くのキリスト教徒がその事態に窮してキリスト教から去って行った時代なのだった。そのことについてヨハネは他の福音書よりもきめ細かく記している。特徴的で他の福音書には無い表現は「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言いあらわさなかった」である。社会や人からの絶縁や疎外という事ほどショッキングで傷つくことはない。だから人はみな、社会や人にこびへつらい主イエス・キリストを色々な理由や正当化を用いて否定するのだ。記者ヨハネはまさにそのような私たちに真の裁きを示してくるのである。
 叫ぶイエス・キリストは印象的である、「私を信じる者は」「私を遣わされた方を信じる」「私を拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が」「その者を裁く」と非常に強烈なメッセージを発し、グノーシスすれすれの二元論的追求を記している。
 四旬節、受難説というと『私たちのために主イエス・キリストが苦しみをお受けになった』というような認識が優先されがちだが、今日の箇所ではそのように主イエス・キリストを苦しめた、また今も尚苦しめているのはこの箇所を読んでいる読者だと追及しているのである。その真実がわかる時こそ、主イエス・キリストが「世を裁くためではなく、世を救うために来られた」という、あまりにも尊い主の惠みが与えられる時なのではないだろうか。
 この、ヨハネ福音書の、他の福音書にはない特種な、今現在の、私たちに起きている、イエス・キリストへの拒否という現実と、その現実に気付いた時の救いの惠みの奇跡が力強く示されているからには、私たちは残り少なくなった、この四旬節の一日、一日を大切にしていきたいと思うのである。
by qpqp1999 | 2009-04-09 14:25 | キリスト教

道義的責任

オバマ北米大統領の演説

米国は、核兵器国として、そして核兵器を使ったことがある唯一の核兵器国として、行動する道義的責任がある。

核拡散世界絵図の中にあっての計算という批判もあるが
素直にいいこと言ったと思います。
by qpqp1999 | 2009-04-06 22:35 | 政治