牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

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ナニカ コワレタ

ナニカ コワレタ
レタ レタ レタ
とパフュームのプラスチックスマイルという曲が
頭からはなれない
わたしは漫画はネームの段階から
デジタルでやっているのですが
なんにもさわってないしうごかしてもいないのに
デジタル描写に絶対必要な
液晶ペンタブレットがコワレタ レタ レタ レタ
ああっ ああっ
でんげんがはいらないっ
もう仕事できませーん
ああっ あアッ ナニカコワレタ レタ レタ レタ
by qpqp1999 | 2008-10-31 17:10 | パソコン

恫喝

私はこれまで3回も振り込め詐欺から
アタックを受けました。
まだそれほど振り込め詐欺が有名にならないころ
最初のそれはあった
電話で何度も何度も
催促がきて
ものすげいうざかった。
もちろん私は今実家にいるので
その電話がかかっている自宅には
週に一度空気通しにいってる時に
留守電にはいっているのだが
半年もこれがつづいた頃
わたしは
キレタ
わざわざ地元からはるか離れたところにいったチャンスに
公衆電話からその振り込め詐欺野郎に
名指しで
恫喝した
相手はかなりビビッていた
それ以降ピタッと電話は止まった
そして最近
携帯のメールに
「あなたの登録したサイトが未払いです、訴訟します」
ときた
呆れはててものもいえません
こんなのにひっかかる人がいるのだらうか
訴訟を起こすにはねそれなりの手続きがいるのよ
最低でも内容証明郵便だよな
それをこともあろうに携帯メールって
ここも番号控えたからどこか遠くに行ったら
公衆電話から
恫喝
してやろーっと
きゃ母母母っ!
なかなか恫喝する機会ってないからね
ストレス発散になっていいぜええええ
by qpqp1999 | 2008-10-29 20:13 | 都市伝説
聖霊降臨後第24主日礼拝説教 マタイ福音書21章1―14節
 なんと危うい箇所であろうか、前後の脈略が矛盾しているばかりか、一歩まちがえたらとんでもない間違った解釈をされかねないたとえである。
 並行記事はルカ福音書と聖典福音書ではなないもののトマス福音書にみられる。このルカ福音書のたとえの方がシンプルでよくまとまっていてわかりやすいと言えるだろう。聖書釈義の原則にそって言うならばよりシンプルなルカ書の方が古い伝承ということになり、マタイは持っていた伝承に自分で色々と着色しているということになる。
 ルカのバージョンでは晩餐に人々を招いたけれども、あれこれと理由をつけて断られ、予定していない人を招いたという筋書きでわかりやすい。簡単に解説をつけるならば、これはイエス・キリストの教えや信仰というものよりも、あれこれと理由をつけて退ける人々の罪について語っているといえるだろう。そこからルカ神学の刻み方でさらに奥へとはいって考えていけるのだが、今日のマタイ福音書のバージョンは異常に複雑になっていて整合性が無いというのが特徴である。
 どのように整合性が無いかというとまず、このたとえは天の国についてのたとえなのだが、王が結宴に招いていた人々を使いをやって呼びにいくのだが使いの僕は無視され、あるいは殺されたりする。そこで怒った王がその町を焼き払う。そこまでは、いいもんだいはその後の王の言葉だ「町の大通りに出かけ見かけた者はだれでも結宴会に連れてきなさい」である。今さっき焼き払った町に出かけていって人を呼んでくるというのはまったくもって不自然きわまりない。さらに、そのあとで善人も悪人もみんな呼び集められて宴は一杯になったとある。我慢してそういう展開も認めるとしてもまた王が変な行動にでる。
礼服をつけていない者が一人いた。とこれもまたおかしな話なのだが、なにしろ大通りでいきなり呼び集められたのだから正装している方が不自然だろう。ところが一人だけ礼服をしていないのを見つけると「この男の手足を縛って外の暗闇に放り出せ」とくる。いきなり呼ばれてきたんだから、礼服着てないでしょう普通と言いたくなる展開、さらに結びのイエス・キリストもまたすっとんきょうなことを言っている「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」これだとこのたとえに一致しない、なぜなら宴席は一杯になっていてその中でたった一人だけ礼服をつけていなかったので放り出されたのだから、招かれている人そして選ばれている人の方が多いではないかという話になってしまう。
 と、ざっと読んだだけでおかしなことばかり続いてしまうが、これはマタイがあれこれとそこに意味をこめたために生じた歪みと言うべきものであろうしその歪みこそがマタイの神学やメッセージを顕著にするのでもある。
 そこで早速最初の方から入ってみたい。最初のテーマはエルサレム陥落である。あまり世界史には登場してこないので日本では知られていないが、イスラエルの民にとって、ユダヤ人にとってエルサレムの陥落は想像を絶したものであった。このエルサレムはイスラエルのバビロニア捕囚時期がペルシャの台頭によって解放され、祖国にもどって作り上げた神殿が元になっている。その神殿を一大神殿都市にしたのがかのイエス・キリストを亡き者にしようとした王ヘロデであった。ローマ式のモダンでしかも豪華絢爛たる高さ20キュピト15.9メートルの大神殿とそれをとりまく堅固な城壁、その一部にはローマ軍将軍アントニウスに敬意を表して建てられたローマ軍駐屯基地アントニア城が聳え立っていた。もともと、ペルシャの権力下にあったユダヤの民はペルシャ神殿より大きな神殿を建てることを禁じられていたのだが、これをもとのダビデの息子ソロモンの建てた神殿と同じサイズに作りなおしたもので、また聖所には祭司しか入れないので祭司にして石工たる人を養成して作り上げた、それはものすごいものだった。紀元66年ローマ帝国の支配下にあることに反発して反乱が起きたがかのローマ帝国もてこずりにてこずって4年間もこの戦争は続くことになる。最終的にはこの神殿要塞都市エルサレムの包囲戦闘となりついに紀元70年エルサレム神殿は陥落し、破壊しつくされたのだった。この出来事を見た福音書記者たちは皆それがイエス・キリストを殺したユダヤに対する結末であることを強調している。尤もこれは日本だから言えることでこれをキリスト教文化圏で言ったら最後反ユダヤ主義者とののしられ、ナチス扱いされてしまうにちがいない。しかし、マタイは確実にそのような視点でエルサレム陥落を捕らえている。イエス・キリストに否を唱えた「町」は「焼き払」われたのである。私は決して反ユダヤ主義者ではないが、このように歴史に足跡を残す神というのは意外に少ない。ほとんどが人の手によって残されたものであって主がまるで生きて歴史に関わっていると感じる宗教というのはキリスト教くらいではなかろうか。そこで、この焼き払われた町について語るならば、それは私たちの一挙手一投足までもが主なるイエス・キリストの支配の中にあり、尚且つ我らはその意思によって自由に動くことができると言う事。そして、その自由さを用いて主イエス・キリストにより頼むのか、否かということで私たちの人生航路もその波、風の起きようも変わって来るということである。天網恢恢素にしてもらさずというが、その天というのはまさに主イエス・キリストなのである。しかもそこにあるのは規律や行いではなく自由があるということである。主イエス・キリストのうちにあってはいかに我らの状況が暗く思えてもエルサレムが陥落するほどの大きな転換があることを信じて進むことができるのである。
 そして次の歪み、「礼服を着ていない者」が裁かれるというたとえ。しかもこれをして「選ばれる者は少ない」とまで言い切ってしまうシビアさ。もちろんこれが<教会に行く時は正装していきましょう>等というような戯言に説教されてしまっては全くそういう説教者は失格といえるだろう。これは着物のことを言っているのでもなければ、礼節をわきまえるべきことを言っているのでもない。信仰の有り様を言っているのだ。となると前のたとえとのつながりがよくわかってくる。
 「善人も悪人も」皆集められるのである。だからどのようにしなさい、とか規則ただししくありなさいとか軍国主義みたいなことではなく、全くその逆なのだ。私たちは主イエス・キリストに「招」かれたのである。ここにどれだけ大きな恵みを感じているか、その恵みの中であくまでも自由な意思とあり方によって生きて行くべきことが、たとえとして語られているのである。主イエスキリストの恵みの深さはここにあるのである。
by qpqp1999 | 2008-10-26 22:51 | キリスト教

その時歴史は動いた

わたしの
フェイヴァレットな番組に
NHKの
「その時歴史は動いた」です。
今も、てんしょういんのことやってるけど
この番組・・・
なんで元号でいうわけ
安政なんとか年なんて言われても
何年くらいなのかわかんねーつーの!!
西暦でやってくれ
「それは●〇〇の7年前」とかいらにいから
西暦でいってくれえええ
by qpqp1999 | 2008-10-22 22:15 | 歴史
聖霊降臨後第22主日礼拝説教 マタイ福音書20章1―16節

 マタイ福音書にのみみられるたとえ話である。しかも前の部分と同じしめくくりを用いて「このように後にいる者が先になり先にいる者か後になる」としている。
奇妙なのは夜明けから働いていた人が仕事も終わりかけの夕方5時に働き出した人の給与の支払いの順番が逆になっているけれども、問題の中心点はその順列ではないことは明白であろう。ここで問題にされているのは仕事の中身の話である。夜明けから炎天下働いた人も夕方の5時から僅かだけ働いた人も同じ給与である点である。ということは、「後」とか「先」とかあまり関係なくなってしまうのであった。
 しかし、マタイはあえてこの「このように後にいる者が先になり先にいる者か後になる」をこのたとえの結びにつけていることは、改めて注目してみたい。すると直前の同じ言葉でしめくくられた19章16節から30節までが意外に伏線になっているのではなかろうか。これは新共同訳で「金持ちの青年」と題された物語だが、ここではある青年がイエス・キリストに「先生、永遠の命を得るにはどんな善い事をすればよいのでしょうか」という問いから始まる。私みたいに善い事からは大きく離れてしまっている人間からみると、この青年のように進んで、どのような良い事をすればよいのかと、善行に積極的なことに感心してしまうが、イエス・キリストは「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」と言う。青年は「どの掟ですか」と詰め寄るするとイエス・キリストは「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また隣人を自分のように愛しなさい」と段々と難易度の高くなる掟を示す、私なんかだとこの時点でもうアウトだが、この青年は違った「そういうことはみな守ってきました、まだ何か欠けているでしょうか」そこでついにイエス・キリストの奥義「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に冨を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と語りかける。すると青年は「この言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産をもっていたからである。」となる。非常に印象的な部分でこの物語についてはマルコ、もルカにも並行記事が見られる。よほど流通していた伝承なのだろう。そこでイエスは言う「はっきり言っておく金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と貧乏人にとってはとても励みになる結末になっていて、それを聞いた弟子たちが「それでは誰が救われるだろうか」と言う。対してイエスは「それは人間にできることではないが神は何でもできる。」と特別なことを言う。
その後の展開は意外な方向に行ってしまうペトロが「何もかも捨ててあなたに従ってまいりました」と言い切ってしまうし、イエス・キリストもそれを認め「あなたがたも、私に従って来たのだから十二のザに座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」と、これでは、さいしょの「「はっきり言っておく金持ちが天の国に入るのは難しい。」と「それは人間にできることではないが神は何でもできる。」がだいなしなってしまうのではなかろうか。
 そこで今日の箇所にもいうちど戻ってみたい。今日の箇所はその賃金のもらう順番に対して労働者が不平をもらしているのではなく、実際に夜明けから炎天下を通じて夜まで働いた自分たちがあの夕方からちょっとしか働かなかった者と同じ賃金なのはどういうことかと言っているのである。それに対して主人は「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか、わたしはこの最後の者にもあなたと同じように支払ってやりたいのだ」と応える。
 これは主イエス・キリストのわたしたちへのあり方である。どんなに立派な人でも、どんなに姑息で罪深い者でもイエス・キリストの呼びかけに応えて人生を送るならば、そのあり方がどうであれ、イエス・キリストの救いの恵みに与ることができるということである。勿論それだと最初の金持ちの青年の話はどうなるのかということになってくるが、この金持ちの青年はイエスの呼びかけに応えなかった人なのだ。かえってよびかけに応じた罪びとたちはこの恵みに与る。このギャップが「このように後にいる者が先になり先にいる者か後になる」というしめくくりの伝承句によってしめくくられているのである。
 先の者も後の者も同じ恵みなのにどうして「後」「先」という概念が持ち込まれてくるのか。それは当時の教会の実情によるものではないだろうか。この福音書はギリシャ語で書かれたものである。ユダヤの民のヘブライ語でもアラム語でもない。ということは、ユダヤ人意外の人、異邦人、あるいはユダヤ系異邦人のために書かれたものであるといってもいいだろう。ユダヤ教の一派たるナザレ派というキリスト教は機嫌70年のエルサレム陥落と同時にその存在が失われた。そして、かえって他の地域に残った異邦人キリスト教会がキリスト教の中心的存在として活動していくことになる。このような実情を観たときに、まさに先にあったユダヤ教、ユダヤ人のためのキリスト教はなくなってしまい、後になって形成された異邦人キリスト教会かキリスト教の中心的存在となったことはまさに「このように後にいる者が先になり先にいる者か後になる」なのである。勿論マタイ福音書は紀元後70年以降に書かれているからそういったキリスト教の事情もよくわかっていたからだからこそ、今日の箇所のしめくくりにその意味をもたせているのである。
 もちろん、これは単にキリスト教史にだけその意味を見出すものではない。「このように後にいる者が先になり先にいる者か後になる」は私たちの生きているその現場にも起る出来事であることに触れておきたい。一見力のある者が先になるのではなく、見下げられていた者が高く上げられるというのはまさにイエス・キリストの思想の特色である。
 だから今、虐げられていたり、踏みつけにされていたり、負けていたりしてもそこで決してあきらめてはいけない、というかもったいない。主イエス・キリストの筋書きでは「このように後にいる者が先になり先にいる者か後になる」という強弱逆転の現象が強く強く主張されているのがまさに今日の箇所の大事な部分でもある。人生の采配をにぎっているのはその人ではなく、主イエス・キリストの恵みなのだ。だから救いから遠ければ遠いほど救いに近く、悲しみが深ければ深いほど喜びに近くなるというイエス・キリストの方程式を覚えて、その恵みのうちに生きたいと祈るものである。
by qpqp1999 | 2008-10-12 12:39 | キリスト教

パッシング

パッシング
パスする

という言葉があり松
とくに性同一性しょうがいの方とか女装の方とかが
男ではなく女性と認識された状況をさします

 しかし、これはあまり言い言葉ではない
そもそもはアフリカ系アメリカ人の人がヨーロッパ系アメリカ人の
ハーフで黒人あつかいされなかったことかこの言葉のでき発端だと
されているからです

トランスしだしたころ(音楽のトランスではない)に
コンビにのレジのボタンに赤と青の二列があって
10 20 30 40 とか書いてあるのを
店員が押すのでした。
これは赤20なら20代女性という意味を持ちます。
尤もこれを真面目にやっている人は稀で
ほとんどか゜中川翔子が来ても95歳くらいの人がきても森高千里がきても
50代男性と押している人がおおい
ところが
こないだ行ったサークルKの店員は私を前にして
そのボタンの上で指か止まった!!!
そして
「どーれーにーしーよーかーなー」
とボタンの上で指を旋廻させて考えている
そして出た結論
20代女性!!!
なんか久々に嬉しかったな

そして今年も恒例のツタヤの会員の更新
私免許持ってませんから保険証を出します。
昨年は
「あのー ご主人のではなくて ご本人様のでないと」
と話がこじれてしまい
半ば嬉しいやら 恥ずかしいやらで困ったむー
今年
保険証だしたら
「あのご本人さまでないと・・・・」
とまたしても
ヤター
しかし「本人です」と言わなければならない
なんとも哀愁漂う空気の中を泳いでいったのむー
ろまーっ
by qpqp1999 | 2008-10-10 14:12 | 性同一性しょうがい

心が壊れる

わたしはお酒大好き
つーかお酒飲まないと
心が壊れてしまう
くらいの大酒飲みです。
そんな私にとっては
ビールは水のようなものなのですが
特に生ビールが大好き!!!むー!!!
しかもジョッキで飲むやつがサイコ-に大好き!!!むー!!!
ところがこの生ビール
ジョッキに上手にいれる店員さんととそうでない店員さんでは
大きく異なる
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とこのように人によって
泡の多さがちがうのだ
悪い入れ方してる人の場合7割くらい泡になってしまう
わたしは泡ぢゃなくて
生ビールがのみたいんぢゃああああ
とキレたくなってしまうことがありますが
我慢し松・・・
ただ泡も生ジョッキの醍醐味といえばそうだけど
しかし7割はあんまりだろー
わざとやってるだろー
とキレたくなるけど
わたしキレることが皆無な人なので
キレません
淡々と泡を飲むのでした
とはーっ
by qpqp1999 | 2008-10-06 17:56 | 性同一性しょうがい