牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

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ぎょわああああ

タイトルはエイリアンのおたけびです
しかしねえ
昨今のエイリアンときたら
みなこんなですよ
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頭が透けて見えないの
ぬぺーっとしてて
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これぢゃ
どじょう か さんしょううお 
です
やはり正しいエイリアンは
こんな風に
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頭蓋骨から後頭部まで
透けて見えてないと!!!
上から見るとこんな感じで
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とっ
おもって
いったっらっ
まぢこんなエイリアンの頭みたいなものが
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その名も
「うなぎボーン」!!!
先日浜松に行ったときのお土産の一つでした
そうです浜松名物のうなぎの骨!!
これをバナナチップスみたいにしてあるの
ぱきぱきいわせながら食べた
すげいうめい
しかもエイリアンの気持ちよさで
心までクリーミイイイイ
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by qpqp1999 | 2008-09-30 15:43 | エイリアン
聖霊降臨後第20主日礼拝説教 マタイ福音書18章15―20節
 この箇所は史実のイエスキリストには遡らないであろうと思われる。イエスキリストが今日におけるような教会組織を目標していたかとう問題をまず提示したい。というのは、この聖書箇所は完全に教会、組織化された教会論を語っている。その教会のあり方が主張されているのである。
 物事は組織化されればされるほどおかしな方向にいってしまう事が多い。最もあげやすい例が学校における「いじめ」である。子どもの集団が組織化されてこそいじめははじめて成立するのだ。もちろんこの「いじめ」は大人の社会の中でも頻繁に起きる。最もあきれてしまうのはキリスト教会というキリスト教の共同体の中ですらこの「いじめ」が発生することである。これは私自身が体験したことなので声を大にして言っておきたい。キリスト教の内部でさえも組織的な構造があるため党派が出来てしまい「いじめ」の現象がおきる。私が知ってる、体験したものだけでもおおがかりな「いじめ」といえるものを私は3度経験している。
 一番鮮烈だったのは教会のお金を横領した疑いのある牧師がいて、そのことを内々のうちに、表沙汰にせず教会執行部に伝えた善良な牧師が、その横領の疑いのある牧師にすっかり打ちのめされた例である。その横領の疑いのある牧師はなんとかその事実を隠滅するため示談金で解決をはかったりして保身に走った。それまではまだましだったが、こんどはそれ以上追求されるのを恐れてか、この告発した善良な牧師の教会に密かに介入し、善良な牧師をまさに「いじめ」の構造で、反対勢力をつくりあげ、ついに善良な牧師を追放するに至ったものである。まさに、ここが重要な点なのだが、誰がみてもおかしなことなのに、組織の悪い癖で誰もがみんな口をつぐむか、善良な牧師の敵に回るかしたのであった。
 そのような現実を見るにつけ、一体、主なるイエスキリストはどう思っていらっしゃるのだろうかと思うが、まさにその点を追求したのが今日の聖書箇所である。おそらくマタイも教会のそういう問題に関心があったのではなかろうか。
 「敵を愛しなさい」「7度を70倍赦しなさい」と教会は赦すことが専門の場所である。だが本当に罪を犯した人を赦すということは、無条件で手放しにすべて問答無用というものではないし、そうであってはならない。聖書箇所はまさにジャストなものだ。
 確信をもっていえるのはマタイはこの「あなたに罪をおかしたなら行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら兄弟を得たことになる。と第一段階を設けている。このイメージだとこの箇所の直前の箇所である「迷い出た羊のたとえ」としっかり繋がっていることがよくわかる。「もし、それ(迷い出た1匹の羊)を見つけたら迷わずに99匹その一匹のことをよろこぶだろう」と完全に関連させているマタイの絶妙な技法である。
 礼拝説教ではこの99匹より迷いでた1匹を愛し、優先する赦しの姿勢が優勢であってそのわりには教会内部における本当のトラブルの措置についてはあいまいである。
 最初の段階は「兄弟があなたに罪を犯したなら行って二人だけのところで忠告しなさい言う事を聞き入れたら兄弟を得たことになる」かまず最初の段階である。次の段階は「聞き入れなければ他に一人か二人一緒に行きなさい」最終段階は「それでも聞き入れなければ教会に申し出なさい」である。この記事は貴重な一節でマタイの時代にすでに教会が信仰者の共同体として組織化されていたこと、そして教会があるていどの権威をふるっていたことを裏付けている。
 「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と厳罰をすすめているが、これはまちがいなくイエスキリストの言葉ではない。というのも異邦人や徴税人と進んで仲良くしていていたのがイエスキリストだからである。しかだかってこの言葉はユダヤ教的キリスト教会の伝承にさかのぼるものであろう。
 この箇所でややこしいのは「罪をおかしたなら」という一句であるそれがどんな罪なのかまるでわからない。そして「忠告」を「聞き入れる」というのがどんな状態なのかもはっきりしない。そこで考えられるのは、マタイはあえてこの問題をグレーにした、よくわからないようにしたということである。
 そうしなければ、あれをしてはいけないとか、こうしなければならないとか戒律主義に陥ってしまうからである。それよりはマタイは反対に「迷い出た一匹」をさがすため他の99匹をおいて探しに行ったという立場を明瞭にしてから、今日の箇所に問題を展開していることは重要である。基本的にマタイは愛することを中心にすえた上でそれでも生じる人の愚かさ、残忍さを教会というイエスキリストを信じる共同体においていかに解決すべきかを述べているのである。
 更に教会のあり方について教会論が展開されていく「はっきり言っておく」と重みをつけてから「あなたがたが地上でつなぐことは天上でもつながれ、あなた方が地上で解くことは天上でも解かれる」と教会の威厳を主張している。しかもそれが祈りを土台にしていることが改めて強調されている。「どんな願い事であれ、あなた方のうち二人または三人がわたしの名によって集まるところにはわたしもその中にいるのである。」と最初は最初は教会内のトラブルについてはじまり、それが一匹の羊を捜し求める愛と関連づけられ、最終的には教会はイエスキリストに祈ることから始まること。しかも一人で祈るのではなく他者と共に、それも二人からである。ユダヤ教のトーラーでは男性が10人集まらないとだめなのだがそれを二人という最小単位の共同体にしているのも注目点である。もちろんこの二人はどちらも迷い出た羊である。
 かくしてこの聖書箇所は単に誰かが罪をおかしたからどうこうしなさいというものではなく。1匹の羊を救わんとして働くイエスキリストの姿勢が私たちにも求められているという教えであること。そして私たちがゆらぐことのないようにいつも集まって祈ることが求められているのである。
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by qpqp1999 | 2008-09-28 14:26 | キリスト教

誕生会

姪っ子の誕生会で浜松に行ってきましたむ。
今年はスペシャルで弟も来るので、
私と妹と弟と三人そろったのはもう3年ぶりです。
私と私の両親は貧乏人なので
新幹線とかつかえず、ローカル線をチンタラいきました。
そして、さいごの天竜鉄道というローカル線にのったら
なんとバスみたいに運転席が設置してあるので
車輌の先頭の窓から外が見れる!!!
しかも、走ってるのが森の中なので
ねこバス状態です
「ああっ木がよけてるううっ」
というあのやつです動画をどうぞ

今年は姪っ子にヴァイオリンとヴァイオリン開放弦でなら
どこを弾いてもはまるように作曲したCD、あとチューニング用のピッチパイプと松ヤニです。
弟がもってきたプレゼントは
音にあわせてグリングリンおどるiスピン!!!
私も欲しいーーー
「はっぴぱーすでーとぅーゆー」の歌はわたしのヴァイオリンの生演奏です
しかし、とちりまくったあああ
誕生会の後は宿に行き松。
浜名湖を一望できる展望風呂
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貸切状態でよかったむー
翌日は妹のご主人さまが仕事に行かれたので
松本家と妹の娘と息子と一緒に遊覧船にのり松
姪っ子はとても仲良くしてくれます
わたしが座っていると後ろから抱き付いてくれる
手をつなげばにぎりかえしてくれる
きっと今だけなんですけどとても嬉しいですね
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by qpqp1999 | 2008-09-27 13:23 | アニメ
聖霊降臨後第18主日 礼拝説教 マタイ福音書16章13―20節
 「ペトロ信仰を言い表す」というタイトルのついた箇所である。またこの箇所はローマカトリック教会にとって非常に大事な箇所でもあろう。というのもこのペトロの告白の後にペトロというニックネームがつけられそれは岩という意味であり、その上に教会を立てるとあり、また、「天の国の鍵を授ける」とあって、今でもこの鍵の紋章はカトリック教会で活き続けている。
 キリスト教は他の宗教に比べて、その宗派間の差が少ないというのも特徴といえるだろう。例えば我々のルター派とローマカトリック教会の差は聖餐式の解釈くらいだし、またルター派と他のプロテスタント教会との差もやはり聖餐式と洗礼式くらいである。この枠から飛び出している新興宗教の統一教会や、ものみの棟、モルモン教は完全にキリスト教ではないからこれは論外となる。尤も、神秘主義的な異言や聖霊重視のかなりかたよった教会もあるにはあるが仏教の真言宗と浄土真宗ほどの差はないしもはや中国やアジアの仏教と日本の仏教では全く違う宗教のようですらある。
 さて、今日の聖書のエピソードの舞台となるのはフィリポ・カイサリアである。歴史好きな人ならすぐにピンとくるかもしれないがこのカイサリアは言うまでもなくローマ帝国のカイサルのことである。この領地はヘロデ大王の時代にカイサルから与えられたものでヘロデ大王はその返礼として神殿を立てている。後にヘロデの息子のヘロデフィリッポが拡張して別にカイサリアという場所があるのでそれと区別するためにこのような名前になった。この舞台はマタイの意図的なものである。この地はローマ神殿があるばかりかバール教の拠点でもあったし、もちろんユダヤ教徒もいた。そうした中でイエスは「人々は人の子のことを何者だと言っているか」とあえて問うたわけである。
 この問いは現代日本に生きている私たちにとってはとてもシビアな問いとなろう。というのも欧米ではキリスト教は保守勢力でキリスト教徒であることが当たり前になっているが、日本ではそうはいかない。幸いにしてキリスト教に対して「邪教」だという攻撃的な対応は少なくなっているものの、真面目な人が行くところ、あるいは変わり者が行くところというようなマイノリティーであることは今もってキリスト教宣教のさまたげとなっている。
 イエスキリストの時代、イエス自身をしてこの方を神とする人がどれほどいただろうか。確かに病気は治してくれる、歩けない人があるけるようにする、見えない人を見えるようにする、悪霊を退治する、しまいには死んだ人を生き返らせる。勿論、聖書の記者はそれらをルポルタージュしているわけではなく、それぞれの奇跡一つ一つについて意味を持たせている。が、しかし、実際のイエスキリストは本当にこれらの奇跡をしていたと考えてまず間違いはないだろう。というのも、ユダヤ当局のサンヘドリン最高法院でのイエスの裁判は表立ってできなかったという点があげられる。それくらいイエスキリストは人気者だったのだ。夜陰にまぎれてイエスを拉致しローマ総督に突き出して十字架につけた。これは間違いなく歴史的事実である。そして、その十字架に何故イエスキリストがつけられたかというと、「冒涜」の罪だった。それ以外は何もしていない。いいことしかしていない。せいぜい安息日の掟を破った程度である。しかし、ユダヤ当局は暴動もいとわぬ姿勢でローマ総督ビラトゥスに迫ったし、ユダヤ人のいいなりになるものかというピラトゥスを脅かすほどの騒ぎになってとうとう十字架で処刑されたわけである。
 人々のイエスに対する評判として「洗礼者ヨハネ」がまずあげられる。ヨハネを処刑したヘロデ・アンティパスはさぞかし気味が悪かっただろう。「エリヤ」は言わずと知れた大預言者で死なないで天国に行ってしまった人でこの人が現れると終末といわれていたからイエスの評判とてはかなりよいイメージといえる。つぎは「エレミヤ」も終末に現れるといわれていた預言者である。つまり、人々のイエスキリストに対する評価は相当なものだったことがわかる。そこでペトロが言う「あなたはメシア、生ける神の子です」と。この時点ではまだペトロになってなくてバルヨナ・シモンといわれいる。しかし、これだと語呂合わせがうまくいかない。ギリシャ語ではペトロス・ぺトラになってしまう。しかしアラム語だと両方ともケファーである。
 18.19節はイエスキリストの言葉に遡るものではなく後から付け加えられたという見解が実は強い。コリント書1章3―11でパウロはペトロを土台にキリスト教が成り立つという伝承を知ってか知らずか、これに反論するかのようにキリスト教の土台はイエスキリストだと主張している。もちろん福音書よりもこのパウロ書の方が古い聖書資料である。また、イエスキリストが現代におけるような集団的宗教を目指していたかというと、それに対してはそうではなかったと言うのが史実に近いであろう。
 では、今日の聖書箇所でイエスキリストの福音はどこにあるのかという問いにたどり着く。私はペトロの告白の言葉「あなたはメシア、生ける神の子です」にまず中心点があると思う。「生ける神」これこそキリスト教の骨頂ではなかろうか、イエスキリストは今もって尚「生ける神」として私たちの生活に入り込んでくるそういうお方なのだ。そして私は歴史を振り返るときこれがまさに真実であることを思わないではいられない。
 たしかにペトロ・ケファが教会の土台だとかいうと、どうだかなあと思ってしまうが、しかし、世界人口の四分の一がキリスト教であること、そして、その多くがカトリックであること。戦慄を覚えないではいられないのはバチカンこそ、ペトロ・ケファが逆さ十字架で処刑された場所であるということである。
 私はとりたててこのカトリック教会を唯一のものとは思わないが、事実、中世にマルティンルターが現れるまで教会は厳然として、このペトロ・ケファの上に建てられていたのだ。人類史にそれだけ介入してくるのがイエスキリストである。貧しく、教養もないようなナザレの青年がどうしてこれだけの大宗教のキリストとなったのか。それを思う時、私は信仰の告白をしないではいられないのである。
「あなたはメシア、生ける神の子」ですと。
そしてこの生ける神の子イエスは今後も私たちの祈りと共にその実際の生活の中に入り込んで生ける神として働くことに感動しないではいられないのである。
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by qpqp1999 | 2008-09-21 13:01 | キリスト教
私は光物系フェチでもあり松。
私の人生におおきく影響を与えた光物
それは宇宙戦艦ヤマトの主砲の光
透過光とかいうテクで光って見えるやつ
しかしそれよりも大物があった
スターウォーズの
らいとせいばー
ヴオン ヴオン いいながら光ってるあれです
子どもの頃はなんとかあのライトせいバーに近いグッズをさがしたものです。
んでもって今日サックスのロングトーンしてたら
音の出が変になってる
低音にいくほど
ぷしゅーーー
という音が出る
リペアしたばっかなのに何故に
最初は私の腕前の問題かと思ったので半日かかってチェック
やっぱりどこからか空気がもれている
早速、行き着けの楽器屋さんでみてもらう
その時、わたしにとって萌えなものが出現
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まさにライトせいバーです
これはサックスの中に入れて、たんぽからもれてる光をチェックするのだ
こんなですへー
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けっきょくやはり空気がもれてた
サックスの一番上についてる直径3ミリくらいのタンポがコンマ2ミリほど浮いていたのだ
そこをなおしただけで同じサックスか?!?!?と思うほど音が良くなったむー
それにしてもリペアしてくれた楽器屋さんのリペアマン
すげい腕前でつ
ありがとございましー
それにしてもそんなちいさなパーツがコンマ1ミリおかしくなっただけで
音が出なくなる楽器って・・・
ちょっとでも変な持ち方したらすぐにタンポ調整がおかしくなってしまうなんて
サックスってめっちゃ微妙な楽器だなと
つくづく思いました。
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by qpqp1999 | 2008-09-18 19:47 | サックス

バトル

先日は私がドラムスを担当する
新生ルーテルゴスペルクワイヤーのライブでした
お客さんも満席
メンバーのテンションも上がります
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ところが
ライブの前半の真ん中くらいで
すっごく
屁こきたくなった
しかしこれは へ ではない
と直感した
ここで へ をこいたならば
確実に実もでてしまうような
危機的状況になってしまった

しかし、ドラムは私一人だからステージを離れることはできない
へ をこらえながら必死でドラムを叩く
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バスドラをキックするたびに
お尻にひびいて
今にも
へ こきそうです
しかしここで

をこいたならば
確実に
が出てしまうぅぅぅ
面白いもので5分くらい我慢すると へ こきたくなる状態がなくなる
が、2分もしないうちにまた へ をきこたくなる
そういう への波との戦いです
必死で へ をこらえつつ丁度ライヴ中盤になったら
牧師のトーク時間です はい私の出番です
へ をこらえながら 臆面にも出さず聖書の話をします
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しかし、その聖書を持つ手は
へーこくのを必死でこらえてて
ふるえてしまっている。やっとトーク終わり
40分はこの へ を我慢したと思います
やっとライブが終わったア
速攻て゛トイレに直行
へこいたらやっぱり実がでましたむー
どはーっ
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by qpqp1999 | 2008-09-18 14:11 | ゴスペル
今週の日曜日に私の教会
新生ルーテルゴスペルクワイヤーの
ライブがありました。
残念ながら私は出演してたのと、シャメしてもらうの忘れたので
本番の画像はありませんが
セッティング本番前の様子です
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マイクが8本100ワットのアンプ内蔵スピーカー2発ピアノ、ドラムス、
そして私のドブロギター
尤もなんでドブロがあるかというとクワイヤーの登場の時に
私がアメイジンググレイスをブルーズでするからでしたむ。
なので私はドラムとドプロに囲まれたドラムスローンに
すわるのでした
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集客は50人近く、知らない人もたくさん来てくださいました
しかし
気がついてみると教会に通ってくる人より
ゴスペルクワイヤーのメンバーの方が多くなってる
どはーっ
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by qpqp1999 | 2008-09-17 15:45 | ゴスペル

礼拝説教聖霊降臨後第17主日 マタイ福音書15章21-28節
 意地の悪いイエス様の様子が描かれている珍しい箇所である。ほいほいと病気を治したり悪霊を追い出したりとしていたかと思えば。今日の箇所でイエスキリストに悪霊につかれた娘を癒してほしいと懇願する母親に対してイエスは非常に、つれなく対応して断っている。しかもただの頼みかたではないのだ、あんまりにもしつこいので弟子たちが困ってましって「この女を追い払ってください叫びながらついてきますので」である。これに対してイエスキリストは「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしかつかわされていない」とかなり偏屈な対応をしている。
 尤も、初代教会は確かにユダヤ教の分派であったし、エルサレム教会が主導権を掌握していて、異邦人教会はやれ割礼してないだの、食べ物がどうだとか色々文句を言って偉そうにしている。しかし、紀元70年のティトゥスの攻撃によってエルサレムは廃墟と化してしまったし、ユダヤ教の分派であったキリスト教もおそらくは、ユダヤ教の人々と共にローマの前に滅ぼされてしまったと思われる。結果として、異邦人教会が残り、それだけに聖書はアラム語ではなく異邦人の国際語たるギリシャ語で書かれることになったのである。
 しかし、今日の箇所はイスラエルの民族主義、民族優先主義が主張されているかといえば実はそうではない。そのことを紐解いていきたいと思う。
 まず、マタイ福音書はその冒頭から異邦人の救いについて語っている書物であることは強調しておきたい。ペルシャのゾロアスター教、アフラマズダーを拝するマギたちがイエスキリストの誕生にかけつけ拝したのに対して、ユダヤの民、イスラエルはこれを拒絶したという劇的なエピソードがあるのは実はマタイ福音書のみであることだ。同じ、イエスの誕生物語でもルカではそういった異邦人の救いについては沈黙していて、むしろ貧しさや苦しみを救う救世主としての色彩が強い。
 三度目の正直ともいうが、この悪霊につかれた娘をいやして欲しいと叫びならがらついてくる母親の願いは三度、イエスキリストの応えも三度である。一度目は無視。二度目は「わたしはイラスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とイスラエル、ユダヤ人優先というか、この答えだと完全にイスラエル、ユダヤ人のためにしか遣わされていないと限定されてしまっている。これではマタイ書の冒頭の異邦人で異教徒の拝礼のエピソードと趣旨が矛盾してしまうのではないかと思ってしまうが、実はここがマタイ書の切れのいい福音になってる。
 三度目はどうであったか、この母親はイエスキリストの前にひれ伏して懇願する。対するイエスは「子どもたちのパンを取って子犬にやってはいけない」とあきれるほどに民族主義的なことを言う。もちろんこれはこの物語を際立たせるためのマタイの構成であってそれがこの箇所の目的でも意味でもないことははっきりと確認すべきであろう。
 この冷たいイエスキリストに対して母親は食い下がる「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパンはいただくのです」これは、信仰の根幹に位置する認識ということができるだろう。すなわち、マタイはこの物語を通して、民族主義的な救済物語を展開しているのでもないし、あるいはもっとつっこんで考えるなら、他民族的な救いということでもないということだ。この物語にとって民族性というのはあくまでも物語の頂点に達するための仕掛けでしかないのである。
 このカナンの女はイエスキリストにしか希望を見出せないでいる。それなのにイエスキリストは冷淡にこれを拒絶する。私たちの信仰生活の中でもこのようなことは、しょっちゅうおきるのではあるまいか。そもそも、世の世情を見たただけでも、戦争、貧富の格差、それこそ保守的なキリスト教徒による非福音的な有様。あるいは教会という組織そのものを腐らせる人間のエゴイズム、弱肉強食といった構図である。このような実情を見たときに私たちはどんなにイエスキリストに祈っても、それがどうにもならないという冷たい現実につきあたってしまうのである。
 そのような状況では教会に失望し、イエスキリストにも望みをおくことが困難になってしまっても仕方がない。そこで、今日の聖書箇所の大切な部分がもちあがってくるのである。この女のイエスの拒絶に対する言葉は「主よごもっともです」である。人は何か問題が起こったり、自分の思うように事がはこばなかったり、理不尽な苦しみを受けたりすると、それこそ反対にイエスキリストに「何故ですか?」と問いたくなってしまうだろう。ここがポイントである。そのような理不尽な苦しみの中にある自分の状態を見て「主よごもっともです」と言う事、あるいはそのように価値観を転換することの大切さがよく示されていると思う。
 そして、一番大切なこと、それは三度も否定されているのにもかかわらず、ただイエスキリストの恵にのみ救いを見出し、そこにしか希望がないことを知ることである。この母親はそれを知っていた。どんなに拒絶されようと、イエスキリストによってしか救われる道はないという確信、そしてその確信ゆえに希望のともし火を保つ姿勢、その時に奇跡はイエスキリストによって起こされることが明瞭に示されているのである。
 イエスは三度も断っておいて四度目に<「婦人よあなたの信仰は立派だ、あなたの願い通りになるように」そのとき娘の病気は癒された>と締めくくられている。
 「その時」とは母親の信仰がイエスキリストに届いた時である。ここに民族主義的な救済論は崩壊するのである。何故ならば本来異邦人には与えられないはずのものが与えられたということである。そしてこの母親は自分はその救いに値しない者であると自覚しつつも、尚、イエスキリストに希望をもつこと。ここが大切な点である。
 確かに、私はおおよそ救いには値しない者であると私は自覚している。そうなってしまったらもはやイエスキリストにより頼まないではいられないし、イエスキリストにしか真理や希望を見出せないということである。
 かくして、一見、民族主義的な物語でありながら、マタイは実は信仰の姿勢がいかにあるべきかということを見事に描いているのである。
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by qpqp1999 | 2008-09-16 14:18 | キリスト教

つっこみ所

先日観にいった
「崖の上のぽにょ」
それは素晴らしいアニメーションでした。
しかし。、ストーリーとか設定か
おそらくシビアな漫画関係の編集者なら
全ボツにするだろうなと
思うくらいにつっこみ所満載でしたむ
世の中には確かにいます
海水で生活していて淡水のとこまでもどってくるやつ
しゃけとかそうですよね
だからぽにょが海水から打ち上げられてしょうすけ君が
淡水に入れても
そういう種類の魚だからいいんです
と、開き直るでしょうね宮崎駿さんは・・・
でもね仮に淡水でも生きられる魚だとしても
いきなり水道水を注ぎ込まれたら
カルキですぐに死んでしまうでしょ?
そしたら
「あれは水道水ではなくて井戸水なんだ とか
雨を溜めてるタンクからの水なんだ}

いいわけするんでしょうね・・・きっと
そしてラストのところでデイサービスを利用している
車椅子のご婦人たちがほいほいと歩いてる
どーゆー過程でそうなったのか
全く説明されてませんよね
しかもトキさんだけ一人のこってて
それでも歩けるようになっている
このへんのディティールが甘すぎ松
しかもお母さんが
めっちゃ巨大な観音様みたいなのに
お父さんは頬のこけたピアスおやじだというのも
腑に落ちません
あの二人・・・どうやって子どもをつくったんだろへー
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by qpqp1999 | 2008-09-12 10:16 | 映画

ぽにょ

とっても素敵な女性と映画館のレイトショーに
行って来ましたむ。なんかぽにょよりそんな素敵な方と二人して映画館のレイトショーに行ける
という私にとっては感慨無量なことだったので、そっちの方が映画よか楽しかったな。
夜の9時40分スタートで
ぽにょはさすがに子供向けだからあまりいないかと
思いきや
そっらもう、わんさとお客さんがつめかけてて
チケット売り場は長蛇の列です。
それでもフロントのいい席がとれた!!
しかしぽにょは
宮崎駿さんが続き漫画みたいにコンテ切ってつくってる
映画だけにストーリーとしては
ジブリ映画に独特の構成のもろさが露呈してたな
という感じを受けましたね
トトロやナウシカや紅の豚とかはストーリー構成が
かっちりはまっていたなとも思いましたね。
もちろんアニメーションや
画力とか
表現力
はジブリならではの素晴らしいものでした。
んで映画館に行って気がついた
カンフーパンダ観るの忘れていたあああああ
いつまでやってるかな
とりあえずポーの前で
キックポーズなど
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してみましたむー。
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by qpqp1999 | 2008-09-08 18:31 | 映画