牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

カテゴリ:来世( 1 )

あるかないか

 あの世っていうのは、結局あるんだと思う。これだけ長い間、牧師をしてきて、今更言うのも変かもしれないが、実存的であるということは、あの世を切り捨てることではないんだろうなと、強く考えるようになった。
 実は意外かもしれないが、聖書には「ヨハネの黙示録」にみられるような「黙示文学」にしか、あの世については書かれていない。そりゃ、そうだ、あの世を見てきた人が書いた書物なんか、聖書には無いからだ。臨死体験っていうのも、あるけど、あれはあれで、脳の働きだということが、解明されている。つまり、人は死ぬ瀬戸際になると脳のある一部が働いて、世界共通の一つの夢を見るようにできている。大抵は花園があるとか三途の川があるとか、いうタイプのその人の育ってきた文化圏に影響された、イメージを見るらしい。キリスト教文化にそだったならイエス様が出たりするらしいし、臨死体験の特徴の一つである幽体離脱現象とかだ。これに、ついてはもう、脳外科的に説明がついているので今更そんなことを根拠にするのはアホらしいと思うのだ。
 それよりも、もっと大切なのは、来世っていうやつがあるんだと思う事だと思う。そして、たとえば、キリスト教的に生きるって言うんだったら、その来世っていうものを確信して、であるからこそ、時には命をかけてでも闘うことが要求されるようになるんだと思う。キリスト教の非神話化っていうのは決してあの世の否定ではないと考える。むしろ。あの世ってやつに、希望を託しているから非神話化が起こり、実存的に生きて、狂信的にならないようになるんだと考える。
 ものみの塔の連中とかは、そこらへんを根本的に間違えている。なんか、未来の方舟みたいなのに乗せてもらえるかどうかみたいなことに執着していて、ちっとも、現在おきている、差別とか暴力とか世の乱れとかに感心がない。そんなのは、はっきり言って、あの世ってやつを信じていない奴の在り方だ。
 もし、あの世っていうものが、あると信じるんだったら、今、目の前で展開されている差別とか暴力とか世の乱れとかに対して誠実に生きて。キリスト教ならイエスみたいに、世の中から苦しめられている人と連帯して、共に苦しむとか、そういう社会の状態に闘いを挑むというスタンスがあの世っていうのを信じて生きることなのであって、単純にイエスという救い主を信じているからといって、その来世っていうやつを信じていることにはならないと思う。結局パウロだって、そのあの世を描いたヨハネ黙示録の記者だって、抑圧されている状況下にあって、どのように生きるべきかが書いてあるのであって。あの世についての解説をしているわけではないことは明白だ。
 だから、来世っていうのは期待していいものだと思う。その場合、たとえば、イスラム教の自爆テロみたいに、アッラーのために自爆したらあの世で物凄い幸せに生きられるなんて、考え方は本来コーランにも無いだろう。たとえぱ、平気で社会的マイノリティーを踏みつけにする。たとえば、前科のある人を偏見視したりするような在り方は、いっくらイエスさまを信じていたって、来世について考えているとは言えないと考えるのだ。
 来世ってあるんだよな、と考えるということは、キリスト教だったら、福音書が示しているみたいに、抑圧され、苦しんでいる状態にあることであるか、それに連帯するかでなければ、来世について考えていないも同然だと考えるのだ。すごく残念な話しだけど、今のキリスト教、教会、教団にはそれが欠けていると感じるのだ。一度、キリスト教教団という団体になったとたんに、来世っていうのとまったく正反対の方向にみんなが動き出す。そして、派閥や勢力争い、果ては弱い者いじめまで起きるんだから、本田哲郎司祭じゃないけど、キリスト教徒にろくなやつはいないと感じてしまう。
 だから、私はあの世っていうのを楽しみにしながら、今の辛さや苦しさ、をじっくり味わおうと考えるのだ。、そして、今、辛い人、苦しんでいる人と連帯すべきなんだと考える。そして、踏みつけにしている奴らと闘わなきゃいけないんだと考える。それが、来世っていのが、あるっていう態度なんだと考える。
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by qpqp1999 | 2013-05-10 19:34 | 来世