牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


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待降節第2主日礼拝説教 マルコ福音書1章1―8節

待降節第2主日礼拝説教 マルコ福音書1章1―8節
 「福音のはじめ」これは大切なマルコの序文におけるキーワードである。「福音」と訳されているギリシャ語エヴァンゲリオンは七十人訳という旧約聖書のギリシャ語版では世俗的な意味で用いられている。良い知らせの使者に対する報酬とか勝利の知らせというものだ。ところがこれが動詞形になるとエヴァンゲリゼインで「良い知らせを告げる」という意味になる。また特に詩篇、イザヤ書では「神の王的支配」を意味しているし、ローマ帝国のアウグストゥスの碑文では「この神(アウグストゥス)の生誕日は彼がもたらした福音の世界に始まる日である」と記されている。
 「イエス・キリストの福音のはじめ」とあるだけにマルコ書はその内容が「福音」を意味するものととらえることができるだろう。イエスの活動とその結果がまさに「福音」なのである。
 さらに「キリスト」と和訳されているクリストスは「油そそがれた者」を意味するメシアのギリシャ語訳である。旧約の時代王や祭司は就任の時に油をそそがれたことに由来する。イエス・キリストの時代ではメシアは「救い主」を指すにようになっていた。マルコはこの称号を福音書の冒頭に配置したのだった。引用されている旧約聖書はイザヤ書のみではなくマラキ書、出エジプト記も引用されつなぎあわされている。
 そうした旧約聖書の実現として洗礼者ヨハネが「主の道を整え、その道筋をまっすぐに」する者として登場する。
 洗礼者ヨハネのいでたちは「ラクダの毛衣を着、腰に皮の帯をしめて」いたとされている。ベドウィンなどの遊牧民族とも似た姿であるが、預言者エリヤを思わせる姿でもある。
洗礼者ヨハネがクムラン人のように荒れ野、洞穴で修行をしていたかどうかは不明であるが、荒れ野はイスラエルにとっては試練の歴史でもあり、また恵みの歴史でもあったから革命的なメシア運動もこの荒れ野から起っている。
 ヨハネがクムラン人たちとは違う点は、俗世を離れた修行生活をしているというよりは「ヨルダン川」で罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を述べ伝えた」というところである。悔い改めはギリシャ語でメタノイア、ヘブライ語でシューブでその人のすべてをもって神に帰り、神に服従することを意味している。
 イエス・キリストが洗礼者ヨハネとどういった関係にあったかは定かではない。ルカ書によれば親戚になっている。洗礼者ヨハネに妻や家族がいたという記録はないし、むしろ荒野に住み野蜜といなごを主食としていたところからみるとやはり修行生活をするクムラン人のようだっただろう。一方のイエスはというと、これが謎に満ちている。まずもって聖典福音書が最も古いイエスにまつわる伝承であることが問題である。聖典福音書ははじめからイエス・キリストを主とて信仰することを意図して書かれているから、「神格化」されてしまっていることはまちがいない。しかし、そのような乏しい伝承の中からもいくばくかの歴史的な要素を読み取ることはできる。まず、イエス・キリストには妻がいなかったという点である。マグダラのマリアが2世紀頃に書かれた「マグダラのマリアの福音書」の中で「実質、妻」といわれているが、2世紀の書物では信憑性はかなり低い。となるとイエスもクムラン人のように修行生活して出家していた可能性が考えられる。当時の男性の適齢期はティーンエイジゃーだったから、30歳にも達するかというイエス・キリストが結婚していなかったというのは異様な事態である。あまりキリスト教の宗教学者たちはこの点についてふれていないし、ふれようもないからそのままになっているが、イエスがある時突然に宣教活動を開始したことは間違いないだろう 
 それを裏付ける役割を担ったのが洗礼者ヨハネである。洗礼者ヨハネはその信仰によって人々に説いてまわり、「悔い改め」の洗礼を授けていた。後に、イエスもこの洗礼を受けるものだから、キリスト教徒はちょっと困ってしまうのだが。というのも、何故に神の子が「悔い改め」の洗礼をうけなければならないかという問題が生じてくるからであるし、これだとイエス・キリストは洗礼者ヨハネの弟子であったかのような状況になってしまう。
しかし、福音書記者たちとりわけ古いマルコ福音書では、むしろ積極的にこの問題をそれこそ福音に変えてしまったのだった。
 洗礼者ヨハネはあくまでもイエスキリストの到来を告げる「荒野で叫ぶ者」なのであり、その預言の成就とみなしたのである。また洗礼者ヨハネはついにメシアの到来を告げる「私より優れた方が、後から来られる。」と。
 私たちは時に望みなく、希望もなく、可能性すらもない過酷な時を迎えることがある。そういう私たちに同じように過酷な時を迎えていたであろう福音書記者マルコが序文を告げる。「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」である。洗礼者ヨハネは現在の私たちに告げる「わたしよりも優れた方が後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水で洗礼をさずけるが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」この最後の預言者の言葉はいつの世になっても変わることのない希望の予告である。それが待降節というイエス・キリストの到来を待ち望む期間であるだけに重要である。寒いさなか、希望もなく悲しみにくれている人がいたならば、かえってお祝い気分のクリスマスは気分のよくないものとなるであろう。しかし、そういう人にこそこのクリスマスを待つ待降節は用意されているのだ。悲しみや、涙はクリスマス、主イエス・キリストの到来によって歓喜に変わることを洗礼者ヨハネは告げる。
 聖霊による洗礼とは単に宗教団体たる教会が執り行う洗礼だけに固執するものではない、主イエス・キリストの恵みが、奇跡がそこに喜び、エヴァンゲリオン、福音としておこる体験である。
 この待降節は、マイナス思考になっている時にこそ意味を発揮する。今ある忌まわしい現実は聖霊によって洗礼を授けてくださる主イエス・キリストによって完膚なきまでに作り変えられるという希望をもってよいのだ。持つべきだというのが待降節における私たちの信仰のあり方であるからであり、また実際にそれを体験することをリアルな「神の子イエス・キリストの福音」として期待すべき期間なのである。
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by qpqp1999 | 2008-12-07 23:20 | キリスト教