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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

聖霊降臨後第14主日説教

聖霊降臨後第14主日礼拝説教 マタイ福音書13章44―52節
 紀元0世紀、財産を壺に入れて土に埋めておくという一見原始的な手段はよく行われていたという。土に埋めた人が死亡したり、奴隷になってしまったりしたばあい、その壺はそのまま埋められ、やがて誰かがそれを見つけて得をするということがあったらしい。
 また真珠はとても神秘的なものとして認知されていて、礼拝すらされていたものでもあるという。
 この畑に埋められていた宝を発見した人のたとえと、よい真珠を発見した商人のたとえはとても似ているけれども、もともとは別の伝承ではなかったかと思われる。というのは畑で宝を見つける人の場合は現在進行形で書かれているが、よい真珠を見つけた商人のたとえでは過去形になっているという点、また「トマス福音書」では別々に書かれている点などがあげられる。
 とはいうもののこの二つのたとえの趣旨は共通している点が多い。
天国のたとえで、畑で宝を発見する人の話とよい真珠を見つけた商人の話はわかるようで、どこかちんぷんかんぷんなたとえに感じる。
 両者とも得をするのだけれど、そのために全財産を売り払うところが共通しているのだ。尤も全財産を売り払っても得をするからそうするのだが、それが天国とどういう関係にあるのかを紐解いていかねばならない。
 天国とはそんなに得をすることなのか。しかし、天国というところがあるのなら、地獄ではなく是非とも天国に入りたいものだが、この得をするという点、全財産をなげうってまでしても手にいれたくなるくらい魅力的なものである点が今ひとつ理解に苦しむ。
 そこで続きを見てみよう、47節以降の漁をしている情景と最後の裁きの時が描かれていて、それまでの宝を発見して大喜びしたり真珠を発見して得をするとかいった、うれしい要素は消えうせ、どちらかというと裁きという恐ろしい側面の方が色濃く出ている。もちろん前の二つのたとえとはもともとちがう伝承であったことは言うまでもない。
 漁師がいい魚と悪い魚をより分けるのがいつしか天使の話になって「正しい人の中から悪い者どもをも燃え盛る炉の中に投げ込む」という恐ろしい話である。
 はじめのたとえを聞いて、罪が許されたからそれをわかることが宝を見つけること真珠を見つけることで、そのためには全財産を売り払ってもかまわないというような解釈はちょっとちがうことがここで明らかになる。なにしろ「正しい人」と「悪い者ども」という強烈なキーワードがそこに関連されているからだ。
 確かにマタイ福音書は救いの恵みや贖罪という考え方を放棄した書ではないけれども、それでも尚必要な「正しい」あり方を求めている書であることをまず中心にして読む必要がある。
 よくある悪徳な新興宗教は救いをちらつかせて、人の財産をそれこそとってしまう。統一教会が一番いい例だ。オウム真理教のように半ば出家させてその人の財産をしぼりとるのだ、しかもその信者は喜んでそれに応じる。なぜなら救われたから。しかし、これだとキリスト教も同じではないかということになってしまう。救われたのだからと・・・。そこで、わたしはこの聖書箇所を読み解くのに必要なのが「正しい」というあり方についてであることを提示したいと思う。
 そこでわかりやすく言うと、統一教会や、ものみのとう、モルモン教など反キリスト教の自称キリスト教どもはキリスト教徒と完全に違う点が際立っていることを示したい。それはこの反キリストどもの場合は洗脳であって信仰ではないという事。キリスト教は信仰であって洗脳ではないということである。
 では洗脳と信仰はどこがちがうのか。洗脳の場合は「ああしなさい、こうしなさい」となってどんどん人を閉じ込めていくのに対して信仰は「ああいうこともできる、こいういうこともできる」とどんどん自由になる点が一番違うのだ。顕著なのは輸血という治療方法は「できる」のに対して、洗脳は「してはいけません」となってくる。また結婚は「できる」のに対して洗脳は「しなさい」になってくるのだ。ここに「正しい者」と「悪いものども」の差を見ることができるであろう。
 「宝」を見つけた人が全財産を売り払って、「宝」のある「畑を買う」のはちょっとおかしい、「宝」だけ掘り出して持っていけば済むことだから。しかし、このたとえでは全財産を売り払うというのが大事でこれが「正しい人」と関連していて、その祭にそれがじっさいに信仰をすることが全財産を売り払うことではないことは明確にしておかねばならない、あくまでもこれはたとえなのだ。「正しい人」のあり方のたとえなのだ。この「正しい人」は「宝」を見つけたことによって財産というものから完全に開放されて自由になったということができるだろう。信仰、恵みとはそういうことだ。
 一見「正しい人」というと真面目な人、悪いことをしない人を連想するがそんなことは全く無い。どんな真面目な人であっても罪人に違いないし、どんなにすぐれた人でも悪いことと無縁な人がどれだけいるというのか。もし自分がそうだと言う人がいるならその人こそ「悪い者ども」の代表だろう。
 そこで、わたしたちは今日の聖書箇所から大変大きな恵みを得たことがわかる。私たちは「ただしい人々」になれるという可能性だ。そして、それは「持ち物をすっかり売り払って」にたとえられるようにあらゆるものの束縛から解かれて自由になり、むしろ何事にもかえられないこの天国の恵みの中で生きることがゆるされているという現象をあらわしているといえるだろう。
 たから「ああしなさい、こうしなさい」という束縛はない。むしろ私たちはイエスキリストの恵みによって罪許されたものであるから「正しい人々」として「ああすることもできる、こうすることもできる」と自由になるのである。これこそが信仰者としての自立ということであり、マタイ書で誤解されがちな律法主義的教えは実は、救われた者の自由の教えだったのだということがわかるのである。
 
by qpqp1999 | 2008-08-17 21:04 | キリスト教