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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

聖霊降臨後大2主日説教

聖霊降臨後第12主日 礼拝説教 マタイ福音書13章1―9節
 教会に通って何年もたっている人ならかならず聞いたことのある有名なイエスのたとえ話である。私が神学生だったころ、江口武徳先生がいわれていたことはとても印象にのこっている。「使徒書の手紙はわかりやすいんです。そもそもわかりやすく書かれたものですから、ところが福音書は難しいんです。解釈をあれこれ工夫しないとわけがわからないからです」だった。確かに福音書はいわば謎の書といってもいいかもしれないほどに、その内容を読み解くのは容易ではない。
 特に、今日の「種をまく人のたとえ」はまったくもって謎そのものである。尤も、後の18節以後でこのたとえの解説が書かれているが、これは本来のイエス・キリストに遡るものではないというのが今日の聖書神学の常識だ。理由は簡単、最初から18節以後の伝承を書けばすむからである。しかし、マルコ福音書の時点から、このたとえと解説はすでに伝承として存在していた可能性が高い。というのも、わざわざこんなまわりくどいことを書くのはどちらの伝承も捨てがたかったからである。
 たとえはヘブライ語に遡ってみるとマーシャールという単語で「謎」という意味も有している。ここで注目したいのはイエス・キリストは「たとえをもちいて多くのことを話された」とあることだ。これは確かに史実に遡るものだと思われる。実際イエスはたとえをもちいて色々な教えをしたのだろう。中にはどうも動かしようのないほどにわかりやすいものもあるけれども、解説でもつけてもらわないとわけのわからないものもある。今日の「種をまく人のたとえ」がまさにそれである。これだけだと本当に意味がわからない、そのイエス・キリストのおしえと私たちの隔たりを象徴するかのようにイエス・キリストは船にのって岸辺の群集にかたりかける。
 ここで皆がよく落ち込んでしまうケースはやはり18節以後の解説をこのたとえの教えと一緒にしてしまい、それで説明を終わらせてしまうことである。確かにあとで解説がついているのだから、なにも意固地になってこのたとえに執着しなくてもと思うかもしれないが、伝承が二つの形ですでに存在していたから、このような記述になったのだから、今日の箇所をテキストにするのであれば18節以後の解説はまず無視するべきだし、そこに甘んじてはいけないと思う。
 逆説的にこの箇所を説いていくならば18節以後はかえっていい参考になるかもしれない。
道端にまかれた種は「御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て心の中に蒔かれていたものを奪い取る」ということになっている。それではよけいに混乱してしまう、どうして道端に落ちたことの解説がそうつながるのか。「石だらけのところに蒔かれた種は観言葉を聞いて、すぐに受け入れるが自分には根がないのでしばらくは続いても、」「艱難や迫害が起こるとすぐにつまずいてしまう人」となってる。根が無いということでこれはなんとか理解できる。「茨の中に蒔かれた」種は「御言葉をきくか世の思い煩いや冨の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない」なるほど、覆いふさがれるという点でこれも合点がいく。そして「良い土地に蒔かれた種」は「御言葉をきいて悟る人」となっている。この説明だと、悟らないとダメだということになってしまう。はっきり言えば悟らない者は救われないという教えになってしまっている。私が思うに人はそう簡単にものごとを悟れるものではないし、悟れないからイエス・キリストにより頼んでいるのではないか。という絶望的な結末を迎えることになる。
 しかし、この解説は「種をまく人のたとえ」のある一面しか見ていないし、視点が全然一方的であることはすぐに気がつくと思う。というのは種が私たちであるという解釈のもとにこのたとえを理解しようとしている点だ。そうなると、その種の個性、環境、状態によって人は救われたり救われなかったりすることになってしまう。種はすきで道に落ちたのでも、石だらけのところに落ちたのでも、茨の中に落ちたのでもないではないか。そんな運命論的な解釈では先が詰まってしまう。
 この種が何の種だったかは不明だが、よほど特種な場合でない以上これは麦か大麦だといえるだろう。ユダヤ人のパンの原料である。紀元0世紀くらいでは農耕技術が発達しておらず、麦、大麦の栽培方法は、手で畑一面に種をまきちらして、その後で耕して土の中にまぜるというものだった。映画「マリア」でもこのシーンがあるがあれは間違っている。というのも先に耕して、耕したところにマリアたちが種を蒔いているからだ。順序が逆である。当時のこんなアバウトな栽培方法ではそれは無駄になってしまう種も多く、熱や害虫の問題もあり、種に対する収穫比率はとても低いものだった。
 そこで、もういちど今日の聖書箇所を紐解いてみたいと思う。これは「蒔かれた種のたとえ」ではなくて「種をまく人のたとえ」であるということだ。前述のように18節以後の影響でこの点に気付くのがとても妨げになっているが。よく読めばわかる。「耳のある者はききなさい」とまあ、現代社会では耳の聞こえない人がいるからなんかいいづらい聖句だが、もちろんこれは通常の耳のことを言っているのではなく、信仰のことを言っているのである。
 私たちは種を蒔く人なのだ。そして、その種は全てが全て実るわけではないことは、当時のユダヤ人なら痛いほどわかっただろう。私たちの信仰生活もこれと同じである。全てが全て順調にいくものではない。時に失敗し、時に大切なものを失い、時に悲しみにあけくれ、時にお先真っ暗になってしまうものだ。だがイエスは言う。「ところがほかの種は良い地におち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍あるものは三十倍にもなった」のである。
 はじめは見込みがなさそうに思えて人の目には失敗や挫折や喪失があるけれども、最後には必ず圧倒的な成果をともなって発現するという収穫の現象が力説されているのである。だからこの箇所の主人公はこの命を生きるわたしたちの種をまくということであり、それに対するイエス・キリストにおける最後の圧倒的な収穫の恵みを確信すること。そのようにこのたとえを喜びのたとえとして信仰の問題としてとらえることが。「耳のあるもの」ということができるだろう。
by qpqp1999 | 2008-08-03 13:36 | キリスト教