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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

聖霊降臨後第十主日

聖霊降臨後第十主日礼拝説教 マタイ福音書10章34―39節 日本聖書協会の新共同訳はそれぞれのまとまりに題目がついている。今日の箇所では「平和ではなく剣を」だ。おおよそキリスト教の教えとは思えないような題目である。ではこの箇所を実際に読んでみるとどうかといえば、けっしてこれは戦いを煽ったり、文字通り剣を用いて戦うというような事柄ではないことははっきりとわかる。
 ルカ福音書にも並行記事があるが、マタイもルカと同じくQ資料を独自に用いて編集しマタイなりの神学で再構成されているので、ルカ福音書の平行記事とは目標とする到達点が違っている。
 それにしても「私が来たのは地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。平和ではなく剣をもたらすために来たのだ」というイエスキリストの言葉はもはやかばいきれないほどに好戦的といえるだろう。とどめは「わたしは敵対させるために来たからである」とまで言い切っている。
 平和とか愛とかいう言葉に満ち満ちているキリスト教において、このような箇所はみんな避けて通りたいと思っているかもしれないが、実はイエスキリストの史実に遡るなら、それは極めて戦いの人生であったことを確認しておくべきであろう。今日の聖書箇所の最大のテーマともいえる「十字架」、イエスキリストがこの十字架刑によって殺されたことは歴史的にまず間違いない事実であるとほぼ確信してよい。というのも、十字架刑というのは反ローマである人や、相当な悪質な事をした人とか、テロリストが受ける処刑方法であったから、その宗教の主とあがめるイエスキリストが十字架刑で殺されたというのは、キリスト教徒にとっては不利な事であるからだ。できれば抹消してしまいたいくらいの出来事であったといっいもいいだろう。しかし、それを抹消することができないくらいにこの十字架の出来事が有名だったから四つの福音書がそろって一致して十字架刑の処刑の記事を書いているのである。
 となるとイエスキリストは少なくとも何かと戦っていたということは間違いないことになってくる。十字架刑に処せられるということは、それだけのことをしていたということになる。聖書の記述では四つの福音書がそろってユダヤ教権力層による謀殺であったということが声高に記されている。そしてローマ帝国側の代表者ポンティウス・ビラトゥスがこの謀殺を食い止めようとしてユダヤ教権力層と戦った、あるいは争ったということも四つの福音書で一致しているから、これも見逃せないし、おそらくは史実に遡ることだったであろう。というのも、ピラトゥスは反ユダヤ的総督として名をなしている歴史的人物でもあるからだ。ヨセフスの歴史書によれば、それまでの総督はユダヤ人を刺激することを恐れて、エルサレムにはローマ帝国の軍旗を持ち込まなかったという。というのも、エルサレムは神殿都市で都市そのものが聖なる都であったため、いかにローマ帝国の軍旗といえども、そこに彫像されたカエサルがあったり鷲の彫像があったりした場合には偶像になるために、エルサレムに持ち込むことが許されなかったのであった。
 ところがピラトゥスはそんなユダヤ人に対して最初から好戦的に、わざわざ夜陰にまぎれてエルサレム都市にローマ帝国軍軍旗をもちこんで飾っておいたのであった。もちろん反発されることも予測していて、反発した者を広場に集めて虐殺をも辞さないつもりでいたという。案の定、翌日はエルサレムがひっくりかえるような騒ぎとなって、人々はビラトゥスに抗議して集まった、ピラトゥスはこれに対し、虐殺をも辞さない態度をとったところユダヤ人たちは立派にその虐殺を受けて立とうとしたのだった。さすがに、そんな大騒ぎはすることができないので、ピラトゥスは渋々、軍旗を引き上げたという。
 そんなピラトゥスだったから、ユダヤ人権力層のいいなりになってイエスを十字架刑にすることを拒んだのだろう。尤もユダヤ教権力層も必死だったのだ、イエスを殺すには十字架刑しかなかったという側面も見逃せない、それはイエスは悪霊払い、病気治しで群衆に大変に人気があったから、白昼堂々とリンチ、たとえば石打ち刑とかにすることができなかったのである。使途言行禄ではステパノがこの石打ちのリンチで殉教しているから、ローマの許しがなければ処刑できなかったという説は通らない。歴史的に言うなら、イエスはリンチするにはあまりにも大衆に人気があったのだった。だからユダヤ教権力層は夜陰にまぎれてイエスを拉致し、不当な裁判で有罪にしてピラトゥスにつきつけたという顛末であった。もちろんイエスを支持していた群集はどこにいったのかといえばどこにもいっていなかった。ただ、ローマ軍にイエスが引き渡される事態になると、そもそも信仰もなくただ、悪霊払いや病気治しという利己主義でイエスを支持していただけの人たちだから、その事態になってイエスを助けようとする人がいなかったのも不思議ではない。弟子たちですら皆、散り散りに逃げ去ってしまっている。
 こういう経緯を見ただけでもイエスはユダヤ教権力層と戦っていたということがよくわかる。ユダヤ教権力層にしてみれば十字架にでもつけなければならなほどに危険な存在だったのだ。だから「平和ではなく、剣をもたらすために来た」「敵対させるために来た」は極めて正しいイエスの教えであるといえる。これは今日の私たちの信仰生活にも直結する教えであることは厳粛に受け止めるべきであろう。
 「人をその父に、娘を母に、嫁を姑に、とミカ書の預言を引用しているがこれは、信仰する者にふりかかる苦難を示している箇所であることも注意するべきで、なにも家庭内を壊してしまえと言っているのではないのである。ただし、場合によっては「自分の家族の者が敵となる」ということは今日でも十二分にありうることだ。
 たとえば、差別の問題や、それこそ平和の問題になったならイエスキリストを主とするクリスチャンは差別する側と戦わねばならなだろう、平和をみだし戦争を招こうとするような者とは戦わねばならないだろう。
 憲法の改正問題が今やカウントダウンに入っている。自衛隊も立派な軍隊になろうとしている。そして、交戦権を認めようという動きが目の前に迫っている。だが、考えて欲しい、昨今さわぎになった秋葉原の連続通り魔事件で、犯人はダガーナイフを持っていた。だから、ダガーナイフを持たせないように規制されるようになった。簡単に言うと今までの憲法ではダガーナイフを護身用に持ってはいけないのと同じように、交戦権を否定し軍備を持たないようにしていたのである。ところが、自衛のためなら交戦権を認め、自衛隊を軍隊にすべきだと言う。そんなことがまかり通るのであれば、ダガーナイフを規制して丸腰に人をさせるのではなく、悪い通り魔と戦えるようにダガーナイフの携帯を義務付けるべきだという話になってくるのではなかろうか。そんな、たかがダガーナイフが倫理上悪いことならば、軍備などもってのほかなのは言うまでもないし、戦争ではなく、外交でものごとは平和になすべきではないのか。まさに平和と愛を主張する日本人、在日クリスチャンはこの平和憲法の改正に断固として反対するべきである。
 そうするとどうなるか、やれ左翼だとか、やれ理想主義者だとか迫害されるであろう。わかりやすくいうとこれが「平和ではなく剣」の状態なのだ。そして、その平和と愛を主張するがゆえに迫害されるなら、まさにそれこそが今日の聖書箇所で言われている「十字架」なのである。
 最後に、「自分の命を得ようとするものはそれを失い」はまさに交戦権を認めず、黙って殺されることを意味しているかもしれない。しかし、それは戦争という人殺しに対する戦いの結果というものだ。しかし、私たちはその道でけっして敗北することはない、というのも「わたしのために命を失うものは、かえってそれを得るのである」は直訳すると「失うことはない」になることも注意しておこう。いかにも、私たちはイエスキリストの道を進むがゆえに何等一切も失うことは決してないという信仰が求められているのであり、そのなかで戦ってゆくのである。
by qpqp1999 | 2008-07-20 14:00 | キリスト教