顕現節第三主日礼拝説教
2016年 01月 17日
顕現節第三主日礼拝説教
ルカ四章十六から三十二節
世の中で、地球で、一番有名な人といえば、イエス・キリストであるということは、どうしようもない事実だ。
世界中の人がこの
イエス
という名を知っている。
ともすれば、日本人でキリスト教徒でなくとも、十字架のネックレスやピアスをしている。
ファッション的にいいものだと言う事もあるのだが、そもそも、この十字架は死刑の道具だ。そんな物騒なものが、この日本国でもアクセサリーとして人気を博している。
これだけ、地球史上の有名人なイエス・キリストだが、驚く事に、歴史的な資料が全く無いという事なのだ。
全く無いと言ったのは、イエス・キリストにせまる歴史的な証拠が無いと言う事だ。
キリスト教の聖書には無いことはない。パウロ書簡が新約聖書の最古のもので六十年から七十年頃だと言われている。
これが福音書、つまりイエスの伝記的な書物になるともっと後で、西暦七十年以降であることは確実になる。もっと遅い時期であることのほうが、現実的だ。
十字架で処刑されたのは、おそらく確かなことだと思うが。ここまで、歴史的な資料が無い中では、ともすれば、十字架の処刑すらも怪しくなってしまう。
実は、これが大事な事なのだ。もし、イエス・キリストが歴史に名を残すような大人物であったら、福音と整合性が成り立たなくなるのだ。
歴史のはざまで、誰に知られることも、記されることもなく殺されていった、というみじめな状況こそが、イエス・キリストの歴史的な事実だと改めて思うのだった。
そこで、今日の個所である。
安息日、即ち、私たちの感覚でいう土曜日にユダヤ教はシナゴーグとよばれる会堂で礼拝を行っていた。
イエス・キリストも生粋のユダヤ教徒だったから、シナゴーグに行って安息日の礼拝に臨んだ事から話しが起こされる。
シナゴーグには古典ヘブライ語かアラマイク語での聖書が巻物になって備えられていた。
私がルーテル学院大学の生徒であった時、音楽の先生がユダヤ教の人と友達で、私はその安息日の礼拝に参加する事ができた。
果たして、巻物状態になっている聖書が登場した。朗読する際には、ふたりがかりで、その読む場所を指しながら、丁寧に読んでいた。
今日の聖書個所のイエス・キリストの朗読もそのようであっただろう。巻物になっている聖書を開いては読むのだった。
そこで、読まれたのはイザヤ書六章だった。所謂、第一イザヤ書だ。
「主の霊がわたしに吹きつける
主が私に油を注がれたのだ。
貧しい人たちに福音を告げ知らせるためである。」
これが、ルカ書におけるイエス・キリストの公生涯の最初の聖書個所であった。
この
「貧しい」
とはどういう意味だろうか。単純にお金が無い人を指すのだろうか。もちろん、そういう人たちも、そうだ。
それだけではない。イザヤ書によれば
「主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」
ということなのだ。
私たちには正に解放が必要だ。世の中で生きて行こうとすると、必ず、私たちは何かに捕らわれて生きなければならない。
果たして、目の見えない人に視力の回復はあるのだろうか。圧迫されている人に解放がいつ来るというのだろうか。
イエス・キリストは言う。
「ここに書かれていることは、今日、あなたがたたちが耳にした時実現した」
と
この時点で、ちっとも捕らわれていることから解放されていない現実に直面する。あるいは目の見えない人にどれくらい視力が回復するだろうか、そして、今の日本でも圧迫されている人たちに解放があるだろうか。
それだからこそイエス・キリストの現実だ。今やこんなに有名になって、神様までになってしまっているイエス・キリストが当時では全く下げずまれていたと言う事が、今日の聖書個所で詳しく語られている。
おおよそ出世するような人ではなく、石工の息子でしかなく、人々を納得させられるような要素を故郷ではいくばくも持っていなかったのだ。
挙句の果てには崖から突き落とされそうになってしまう始末だ。
果たして、キリスト教教会の歴史がそうであった。この福音書が書かれたのは、イエス・キリストが十字架で処刑されてから四十年以上後だ。
しかし、現在をみるといい、キリスト教はそのイエス・キリストの無力さとは、かけはなれて、実力化している。いい意味でも、悪い意味でも。
つまり、私たちは、この聖書個所を起点にして、どのように生きるのかが、求められることになる。
もはや、イエス・キリストの勝利は歴史が証明するばかりとなった。それならば、私たちは、どこの、どういうイエス・キリストに立って生きるのか。あるいは、助けを求めるのかが問われてくる。
奇跡が今、目の前にある。歴史上のあらゆる信頼のおける資料にはイエス・キリストという名は見出されないのに、今や、この名は、世界一有名になった。
この出来事が全てを表明しているだろう。私たちは現実のあまりの惨さに、打ちひしがれてしまうが、本当に打ちひしがれたのは、十字架で処刑された史実のイエス・キリストではなかったか。
そうで、あるならば、私たちはこの顕現節、イエス・キリストが現れる季節に、本当にイエス・キリストが現れて下さることを信じてよいのであり、それを信じて、希望へとつなぐことができるのだ。
それが、このイエス・キリストの顕現の意味なのだ。
ルカ四章十六から三十二節
世の中で、地球で、一番有名な人といえば、イエス・キリストであるということは、どうしようもない事実だ。
世界中の人がこの
イエス
という名を知っている。
ともすれば、日本人でキリスト教徒でなくとも、十字架のネックレスやピアスをしている。
ファッション的にいいものだと言う事もあるのだが、そもそも、この十字架は死刑の道具だ。そんな物騒なものが、この日本国でもアクセサリーとして人気を博している。
これだけ、地球史上の有名人なイエス・キリストだが、驚く事に、歴史的な資料が全く無いという事なのだ。
全く無いと言ったのは、イエス・キリストにせまる歴史的な証拠が無いと言う事だ。
キリスト教の聖書には無いことはない。パウロ書簡が新約聖書の最古のもので六十年から七十年頃だと言われている。
これが福音書、つまりイエスの伝記的な書物になるともっと後で、西暦七十年以降であることは確実になる。もっと遅い時期であることのほうが、現実的だ。
十字架で処刑されたのは、おそらく確かなことだと思うが。ここまで、歴史的な資料が無い中では、ともすれば、十字架の処刑すらも怪しくなってしまう。
実は、これが大事な事なのだ。もし、イエス・キリストが歴史に名を残すような大人物であったら、福音と整合性が成り立たなくなるのだ。
歴史のはざまで、誰に知られることも、記されることもなく殺されていった、というみじめな状況こそが、イエス・キリストの歴史的な事実だと改めて思うのだった。
そこで、今日の個所である。
安息日、即ち、私たちの感覚でいう土曜日にユダヤ教はシナゴーグとよばれる会堂で礼拝を行っていた。
イエス・キリストも生粋のユダヤ教徒だったから、シナゴーグに行って安息日の礼拝に臨んだ事から話しが起こされる。
シナゴーグには古典ヘブライ語かアラマイク語での聖書が巻物になって備えられていた。
私がルーテル学院大学の生徒であった時、音楽の先生がユダヤ教の人と友達で、私はその安息日の礼拝に参加する事ができた。
果たして、巻物状態になっている聖書が登場した。朗読する際には、ふたりがかりで、その読む場所を指しながら、丁寧に読んでいた。
今日の聖書個所のイエス・キリストの朗読もそのようであっただろう。巻物になっている聖書を開いては読むのだった。
そこで、読まれたのはイザヤ書六章だった。所謂、第一イザヤ書だ。
「主の霊がわたしに吹きつける
主が私に油を注がれたのだ。
貧しい人たちに福音を告げ知らせるためである。」
これが、ルカ書におけるイエス・キリストの公生涯の最初の聖書個所であった。
この
「貧しい」
とはどういう意味だろうか。単純にお金が無い人を指すのだろうか。もちろん、そういう人たちも、そうだ。
それだけではない。イザヤ書によれば
「主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」
ということなのだ。
私たちには正に解放が必要だ。世の中で生きて行こうとすると、必ず、私たちは何かに捕らわれて生きなければならない。
果たして、目の見えない人に視力の回復はあるのだろうか。圧迫されている人に解放がいつ来るというのだろうか。
イエス・キリストは言う。
「ここに書かれていることは、今日、あなたがたたちが耳にした時実現した」
と
この時点で、ちっとも捕らわれていることから解放されていない現実に直面する。あるいは目の見えない人にどれくらい視力が回復するだろうか、そして、今の日本でも圧迫されている人たちに解放があるだろうか。
それだからこそイエス・キリストの現実だ。今やこんなに有名になって、神様までになってしまっているイエス・キリストが当時では全く下げずまれていたと言う事が、今日の聖書個所で詳しく語られている。
おおよそ出世するような人ではなく、石工の息子でしかなく、人々を納得させられるような要素を故郷ではいくばくも持っていなかったのだ。
挙句の果てには崖から突き落とされそうになってしまう始末だ。
果たして、キリスト教教会の歴史がそうであった。この福音書が書かれたのは、イエス・キリストが十字架で処刑されてから四十年以上後だ。
しかし、現在をみるといい、キリスト教はそのイエス・キリストの無力さとは、かけはなれて、実力化している。いい意味でも、悪い意味でも。
つまり、私たちは、この聖書個所を起点にして、どのように生きるのかが、求められることになる。
もはや、イエス・キリストの勝利は歴史が証明するばかりとなった。それならば、私たちは、どこの、どういうイエス・キリストに立って生きるのか。あるいは、助けを求めるのかが問われてくる。
奇跡が今、目の前にある。歴史上のあらゆる信頼のおける資料にはイエス・キリストという名は見出されないのに、今や、この名は、世界一有名になった。
この出来事が全てを表明しているだろう。私たちは現実のあまりの惨さに、打ちひしがれてしまうが、本当に打ちひしがれたのは、十字架で処刑された史実のイエス・キリストではなかったか。
そうで、あるならば、私たちはこの顕現節、イエス・キリストが現れる季節に、本当にイエス・キリストが現れて下さることを信じてよいのであり、それを信じて、希望へとつなぐことができるのだ。
それが、このイエス・キリストの顕現の意味なのだ。
by qpqp1999
| 2016-01-17 16:26
| キリスト教