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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

待降節第四主日礼拝説教

待降節第四主日礼拝説教
るか福音書1章39-45節
ルカ独特のマリア伝承である。
大天使ガブリエルが登場する唯一の福音書である。処女懐胎の前にこのガブリエルというし天使の一人である大物の天使である。この天使の中でも唯一女性の姿をした天使としても知られている。ヘブライ語ではセラフィームだ。
この天使がイエス・キリストの誕生の際にした事は、マリアの親戚である祭司ザカリアが神殿でお香をたいて祈っている時にあらわれた。
ザカリアとその妻エリサベトには子供はなく、もう老人になっていたのだったが、天使ガブリエルはエリサベトが
「男の子を産む」
と言った。ザカリアは目の前にある超自然現象に遭いながらも、こんなに歳よりから子供が産まれるわけがないと反論する。
その、せいで、ザカリアは天使ガブリエルが命じた名前をその子供につけるまで、ザカリアの口がきけないようにしたのだった。
その後で、マリアに対して、ガブリエルは受胎告知をするのだった。
多くのキリスト教の絵画で、この場面は描かれているが、宗教的に正確な描写のものは少ない。
炎のように六枚の羽根を持つ蛇のような姿をしているというくらいで、そこから、どうやって女性の姿になるのか不思議なくらいの天使だ。
クリスマスページェントなどで、この受胎告知は美談にされているが、実際はそんな事は無かった。
マリアはまだ婚約状態であって、その期間
夫婦の関係を持ってはいけないという律法があった。それなのに、それまでの間に
 神様からの計らいでイエス・キリストを身ごもると言い放つ。
 当時、おそらく13歳くらいだった少女にその恐ろしい予告を受け入れる事ができただろうか。
 「私は主のはしためです。お言葉通りこのみになりますように」
 という言葉は
<姦淫>
の罪で石打ちで処刑されることを覚悟することに他ならなかったのだ。
主なる神というのは、時々こういう残酷なことをする。
一年しか違わないのだから、婚約してから一年後、つまり夫婦の関係をもった後で、イエス・キリストが産まれても、あんまり問題なかったではないか。それを意地悪な事に、わざわざ、律法違反になる時期に懐胎するという。
この意地悪な主なる神の計らいを持ってして、ルカは恵みと称する。
確かに、私たちは、なんで、どんなめぐり合いで、こんな不幸な事になるのかと嘆くことも多いだろう。実は、その出来事には主なる神が働いていると言う事をルカは示したかったのだ。
マリアの反論に対してし天使ガブリエルが語ったのは、親戚の老婦人エリサベトも主の計らいによって子供を宿しているということだった。
律法違反で石打ちで処刑される。
こんな恐ろしい場面を想定しなければ、仕方ない状況。しかし。
天使ガブリエルは産まれると言う。
産まれると言うことは、律法違反がバレてしまっても石打ちで処刑されることはないという事を信じる事だった。
おおよそ、信じられない事なのだが、マリアには選択肢が一つしか無かった。
信じると言う事だ。
おおよそ信仰というのは、そんなに余裕のある中で成り立つものではないだろう。信仰というのは完全に絶望的な状況におかれている苦しみの中でしか発見できないものなのだ。
それで、わざわざルカはこんな意地悪な受胎告知物語を書いたのだ。
ここまで、来て、やっとの事で今日の聖書個所に達する事ができる。
きっとマリアは不安で一杯だったのだろう。なにしろ、石打ちで殺されるかもしれないのだから。だから遠出して老婆になっているエリサベトの懐妊を確認しに行ったのだった。
この部分もキリスト教では美談化されてしまっていて、本来の意味をないがしろに、してしまう傾向がある。
洗礼者ヨハネの母となるエリサベトがマリアを向かえた時
「わたしの主のお母様がわたしのところに来て下さるとはどういうことでしょう。胎内の子は喜んで踊りました」
一見、ハッピーな場面に見えるかもしれないが、全く違う。
エリサベトだって、マリアの境遇を知っていた。つまり婚約してから一年たっていないという事だ。
それなのに妊娠してしまった。待っているのは石打ちの処刑だけだ。
しかし、エリサベトはそんな不安で一杯のマリアとその苦しみを共有したのだ。それが、今日の個所の最も大事な部分である。
痛み、苦しみの共有、そこにこそ主なる神の力は働く。
ただ、ぼーっと待っているだけでは駄目だ。積極的に、エリサベトがマリアと連帯したように私たちも、世にいる苦しめられている人と連帯すること無しに主なる神を経験することはできない。
また、苦しみの果てにいる私たちは、その苦しみを共有してくれる人々との交わりの中で、その主なる神の祝福を見出すに至る。
即ち、主が与えるのは、苦しみの次に控えている祝福という事なのだ。
by qpqp1999 | 2015-12-19 17:04 | キリスト教