聖霊降臨後第21主日礼拝 マルコ福音書20章17-31節
2015年 10月 17日
聖霊降臨後第21主日礼拝 マルコ福音書20章17-31節
今日の個所で、登場するイエス・キリストに問答をするのは、今までのような敵対的な人ではなく、純粋にイエス・キリストなら答えてくれると思って、問いかけをした人の話しだ。
「ある人が走り寄って、ひざまづいて訊ねた。
『善い先生、永遠の命を受け継ぐには何をすれば、いいでしょうか』」
先ず最初に
「永遠の命」
という事柄から向かいあわなければならない。これは所謂
「天国」
「死後の世界」
の事なのかどうかということだ。
実を言うと解らない。明確に聖書で
「天国」
「死後の世界」
について具体的に記された個所は無いからだ。あっても、ひじょうに象徴的にしか書かれていないのだ。
勿論、私自身は来世というのはあると思っているし、もし天国というものがあるなら、そこにに入りたいと思っている。
おそらく、今回、イエス・キリストに問答したのは、この
「来世」
「天国」
という意味での
「永遠の命」
であったと考えるのが妥当だろう。
イエス・キリストはごく単純に十戒を元にする律法を語る
「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪いとるな、父、母を敬え」
であった。問答をせまる人は
「先生、そういうことは子供の時から守ってきました」
と言う。これでパーフェクトな筈だ。そうでなくとも、これだけの事をしている人は目ずらしい。しかし、イエス・キリストは言う。
「イエスは彼を慈しんで言われた
『あなたに、欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい』」
「その人はこの言葉に気を落とし悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」
貧乏でよかったと思うのはこう言う時である。しかし、世界レベルでいうと私は裕福な方なのだ。牧師館を与えられ、食べるに困ってはない。こういうことを指して
「金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい」
これでは、日本に住む人のほとんどは全滅です。そういう危機感を持たねばならない。
「弟子たちはますます驚いて『それでは誰が救われるのだろうかむ』」
「イエスは彼らを見つめて言われた『人間にできることではないが、神にはできる。神は何でも出来るからだ』」
この部分については日本語約にやや、かたよりがある。もうちょっとギリシャ語原典に忠実にしたいところだ。このままだと、まるで神頼みすれば、全部大丈夫だと言わんばかりになってしまうからだ。
この「神にはできる」という訳だが、ギリシャ語の原典から直訳すると
「神の側のせいではない」
という意味だ。それがあってはじめて
「神の側からは何でも可能だ」
という聖句にたどり着くようになっている。
よく「誰かのせいにするな」と言うことが言われるが、それはひとえに「人間の側のせいで」ということを認識しているという事とつながる。
神というのは見捨てたのではなく、人間の方から神を見捨てたのだという重大な事態に遭遇することになる。
だから、私たちは神を見捨てないようにするべきなのだ。祈り尽くし、聖書も読みつくし、何でも出来ることはやって来たのに、神様からの返事は全く無いままだ。そんな状況が続いたら、だれだって、
「神のせい」にすることになるだろう。
しかし、
「神のせいではない」「人間のせい」なのだ。その意味を理解出来る時、私たちは真理とも言えるものに到達することになる。
「イエスは言われた
『はっきり言っておく、私のため、また福音のために、家、兄弟姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者は、だれでも今、この世で、迫害も受けるが、兄弟、姉妹、母、子供、畑も何百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。』」
マルコ福音書というのは、現存する福音書の中で最古のものだ。その中で、これだけ具体的に来世について書かれていることには驚きを持つものである。そして来世だけではない、今のこの世にある私たちの生きざまの方向次第によって、私たちが受けるその先がイエス・キリストの恵みの内に与えられることを信じて、進んでよいのである。
今、貧しく、打ちひしがれているなら幸いだ、それは歓喜に変わることだろう。
今日の個所で、登場するイエス・キリストに問答をするのは、今までのような敵対的な人ではなく、純粋にイエス・キリストなら答えてくれると思って、問いかけをした人の話しだ。
「ある人が走り寄って、ひざまづいて訊ねた。
『善い先生、永遠の命を受け継ぐには何をすれば、いいでしょうか』」
先ず最初に
「永遠の命」
という事柄から向かいあわなければならない。これは所謂
「天国」
「死後の世界」
の事なのかどうかということだ。
実を言うと解らない。明確に聖書で
「天国」
「死後の世界」
について具体的に記された個所は無いからだ。あっても、ひじょうに象徴的にしか書かれていないのだ。
勿論、私自身は来世というのはあると思っているし、もし天国というものがあるなら、そこにに入りたいと思っている。
おそらく、今回、イエス・キリストに問答したのは、この
「来世」
「天国」
という意味での
「永遠の命」
であったと考えるのが妥当だろう。
イエス・キリストはごく単純に十戒を元にする律法を語る
「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪いとるな、父、母を敬え」
であった。問答をせまる人は
「先生、そういうことは子供の時から守ってきました」
と言う。これでパーフェクトな筈だ。そうでなくとも、これだけの事をしている人は目ずらしい。しかし、イエス・キリストは言う。
「イエスは彼を慈しんで言われた
『あなたに、欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい』」
「その人はこの言葉に気を落とし悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」
貧乏でよかったと思うのはこう言う時である。しかし、世界レベルでいうと私は裕福な方なのだ。牧師館を与えられ、食べるに困ってはない。こういうことを指して
「金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい」
これでは、日本に住む人のほとんどは全滅です。そういう危機感を持たねばならない。
「弟子たちはますます驚いて『それでは誰が救われるのだろうかむ』」
「イエスは彼らを見つめて言われた『人間にできることではないが、神にはできる。神は何でも出来るからだ』」
この部分については日本語約にやや、かたよりがある。もうちょっとギリシャ語原典に忠実にしたいところだ。このままだと、まるで神頼みすれば、全部大丈夫だと言わんばかりになってしまうからだ。
この「神にはできる」という訳だが、ギリシャ語の原典から直訳すると
「神の側のせいではない」
という意味だ。それがあってはじめて
「神の側からは何でも可能だ」
という聖句にたどり着くようになっている。
よく「誰かのせいにするな」と言うことが言われるが、それはひとえに「人間の側のせいで」ということを認識しているという事とつながる。
神というのは見捨てたのではなく、人間の方から神を見捨てたのだという重大な事態に遭遇することになる。
だから、私たちは神を見捨てないようにするべきなのだ。祈り尽くし、聖書も読みつくし、何でも出来ることはやって来たのに、神様からの返事は全く無いままだ。そんな状況が続いたら、だれだって、
「神のせい」にすることになるだろう。
しかし、
「神のせいではない」「人間のせい」なのだ。その意味を理解出来る時、私たちは真理とも言えるものに到達することになる。
「イエスは言われた
『はっきり言っておく、私のため、また福音のために、家、兄弟姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者は、だれでも今、この世で、迫害も受けるが、兄弟、姉妹、母、子供、畑も何百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。』」
マルコ福音書というのは、現存する福音書の中で最古のものだ。その中で、これだけ具体的に来世について書かれていることには驚きを持つものである。そして来世だけではない、今のこの世にある私たちの生きざまの方向次第によって、私たちが受けるその先がイエス・キリストの恵みの内に与えられることを信じて、進んでよいのである。
今、貧しく、打ちひしがれているなら幸いだ、それは歓喜に変わることだろう。
by qpqp1999
| 2015-10-17 18:20
| キリスト教