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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

待降節第二主日礼拝説教 マルコ福音書1章1~8節

待降節第二主日礼拝説教 マルコ福音書1章1~8節
 今日のテキストであるマルコ福音書は最古の福音書である。その古さはルカとマタイがそれを資料にするほどに古い。もちろん写本の写本のそのまた写本しか残っていない。それでもキリスト教にとってはこれほど古い資料は無いのだ。旧約聖書はどうかという事もあるのだが、じつは旧約聖書が現在のものとして整備されたのは紀元1世紀以降なので、実は聖書の中では、このマルコ福音書が最古の書物だと言うことも不可能ではない。
 今はアドベントの時期で、世界中がクリスマスモードに入っている。別段キリスト教徒でもない松阪の人が、家々にクリスマスリースを飾り、クリスマスツリーも飾り、ついには24日のクリスマスケーキに妖怪ウォッチのジバニャンが売り切れの状態だ。私はこれ、決して悪いことではないと考えている。まず、人々の生活の座にその習慣が楽しみに、とり入れられているというのは、宣教上で最も重要だ、そこを足がかりにして、本当の福音を証ししていく役割がキリスト者の生きる視座であろう。
 マルコ福音書には所謂「クリスマスストーリー」が無い。マタイ書とルカ書ではおなじみの当方の三博士、羊飼いの訪問があるしヨハネ書では、この世の成り立ちのその最初からキリストがいたという創世記まである。しかし、最古の福音書のマルコ書はそういった言わば、神話には興味がないのだ。これは、これで、大事なスタンスだと思う。クリスマス物語から神話を取り除いたら何が残るか。実はマタイ書ルカ書ヨハネ書にもこの読み方は共通して言えるのだが、徹底的に神話化を取り除くと、その核心が見えてくる。
 その核心からこの書簡の導入部を書いたのがマルコ福音書と言えるだろう。「神の子イエス・キリストの福音の初め」として、それが書かれている。これから書きだすことになるイエス・キリストという救世主とどう、向かいあうのか、その姿勢をまずもって、プロローグとするのだった。
 先ずは、旧約聖書の預言から、書き始める。出エジプト記、マラキ書、イザヤ書の三書から引用される。「荒野で呼ぶ者の声がする」と入ってくるので、これは預言者ヨハネのことを指して書いていると思われる。しかし、この点がとても大事で、確かに、この旧約聖書の預言に基づいて、洗礼者ヨハネを冒頭にマルコ書はもってきて書くのであるが、果たして、それが、その預言の成就なのかと言われるならそうではないというのが、今日の個所の大事な所ではないだろうか。
 預言者ヨハネは確かに歴史上に存在した人である。修道生活をする「エッセネ派」とよばれるグループに属していたと考える人も多い。後に、イエス・キリストがこのヨハネから洗礼を受けたという事実から、イエス・キリストは元々はこのヨハネをリーダーとしたエッセネ派の人で、やがて、独立していったと考える人もいる。史実のイエス・キリストはどういうわけか三十代になってその公生涯を始めたと言われているが、それは当時のユダヤ社会では異常な事だった。というのも、ユダヤ社会は早婚で、女性は12歳くらいから男性は14歳くらいからが適齢期とされていたのだから、三十歳にもなって独身でいるというのは、おかしな話なのだ。であるので、よけいに、イエス・キリストは若い時期からこの修道生活する共同体に属していたのではないかと考える人がいるわけだ。
 しかし、マルコ書はそういう背景を一切封じてしまう。確かに、イエス・キリストはこの洗礼者ヨハネから洗礼を受けたかもしれないが、それはまさに「主の道をととのえ、まっすぐににせよ」という預言の成就として書いているのだった。
 「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を述べつたえた」とある。実はこの罪といと訳されているἁμαρτιῶνアマルティオウンは、所謂「罪」という概念よりは、信じていたその道筋が違っていて、本来あるべき目標からずれていた、踏み外していたという意味合いが強い言葉であることには注目したい。
 単純に罪というと、悪い事をしてしまったというような感じになってしまうのだが、この的外れな事をしてしまっていたと言う事に気づくという事が、とても大事なのではないかと思う。たとえば、立派な経験のある牧師でも、ふと気付くと、すっかりその道をふみはずしているのに、それに気付かない、どころか、それを指摘されると必死になって潰そうとするような事象が少なからず私の人生の中では見られた。それは私自身にも、あてはめるべき事で、私はそれが正しいと信じ、確信して、行ってきたが、実は、それは私が思っているような主の道とは全く別の方向だったと気づくこと。これが、「罪」なのだ。ここまで、もってこないと、普通の多くの人は善良だから、自他ともに認める大悪人で無いかぎり、自分の罪について、どうこう考えるのは難しいと思う。多くの人は善意で良好に生きているのだから、その中から罪を重箱の隅をつつくようにして捜すというのもおかしなことで、やはり、それはあくまでもその個人の生きざまの中で、改めて自らの通ってきた道、通っていく道をどのようにとらえているかを再確認する作業。それが「悔い改め」ということになるであろう。
 事実、イエス・キリストが行った活動は、ユダヤ教保守層との闘いであり、それは民族をひっくるめての闘いであったことを強く思う。ただ、洗礼者ヨハネがその先駆けとして、その洗礼の活動を行っていたのと、イエス・キリストが世に登場して行った活動を比較すればわかるのだが、まさにイエス・キリストの活動は洗礼者ヨハネが切望していた働きであったという事が今日の個所のポイントである。
 「私よりもすぐれた方が後から来られる。私はかがんで、その人の靴ひもを解く値打ちもない」というのは、単純に優劣の問題ではなくて、洗礼者ヨハネが本当に期待していた事をなしとげてくれる存在が新たに顕れると言う事を主張しているのである。そうで、あるからこそ、この待降節第二主日にこの聖書個所が選ばれているのだ。
 洗礼者ヨハネもまた殉教している訳だが、イエス・キリストの十字架の処刑と比べるとそれが決定的に違う事がわかる。洗礼者ヨハネの場合は非常に政治の問題、政治家の汚職の問題に関わって、処刑されたのに対して、イエス・キリストの十字架の処刑は、もっと世界規模での民族の虐げられている人たちの代表としてその苦しみを共にされたという側面がとても強いのだ。だから、この待降節には私たちの痛みを共有して下さる本当の救い主に対する待望が示されているのである。
by qpqp1999 | 2014-12-06 18:29 | キリスト教