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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

聖霊降臨後最終主日礼拝説教 マタイ福音書25章31-46節

聖霊降臨後最終主日礼拝説教 マタイ福音書25章31-46節
福音書において、所謂「来世」というものに真っ向から向かい合った個所というのは、実は少ない。今日は聖霊降臨後最終主日である。この主日にはたいていの場合、世の終末、来世についての聖書個所が選ばれる事になっている。今年はマタイ書の中で、それはどこかということで、選ばれたのが今日の個所である。
 今日の個所はマタイ独自の特殊伝承である。他の福音書に並行記事は無い。そして、この個所ほど来世、永遠の命について活き活きと書かれている個所も少ない。本当に単純に来世を想定してよいと考えられる個所である。
 上述の通り、福音書では来世についての記述が少ない。あったとしても黙示文学的なものがほとんどであったり、あるいは非情に断片的に描かれているものばかりである。ストレートにこの来世というものに取り組んでいる個所として今日の個所は非常に興味深い個所といえるだろう。
 そこで、あえて、キリスト教における来世感というものを考えてみたい。実直な信仰においては、本来ならば、産まれながら罪深い人間はイエスキリストの十字架の贖いによってしか来世の天国に入ることはできない。というのが通説であろう。
 事実、少なからずの人が「地獄」に行きたくないから、イエス・キリストを救い主として洗礼を受けるといった事象も決して少なくはない。また、半面で、「来世」など信じない、永遠の命なんかいらないけれど、自分のアイデンティティーとしてイエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受けるという人も決して少なくはない。
 実際のところ、来世というものを想定しないと救われようがない、事実の前にさらされている人にとっては、この来世感というのはかけがえのないものだ。キリスト教会はその点に関しては、敏感であるべきだと思う。
 事実、私の知るかぎり、来世という所で祝福を受けていなければ、どうしてくれるのかという人生を送った人は少なくはないのだ。そして、そのように来世というものと連帯する生き方というのも、今日の最終主日にふさわしいのかもしれない。
 今日の個所はタラントンのたとえ話に続くものである。このタラントンのたとえ話も来世に関係する個所であるが、今日の個所はそれをさらに上回って、ストレートに世の終末について書いてある。「人の子は栄光に輝いて、みな天使たちを従えてくる時、その栄光の座に着く」とある。これは完全にイエスキリストの再臨の出来事を示していると考えない方がおかしい。できれば、考えたくないという人も多いかもしれないが、残念ながら、この個所においては、どうやっても、イエスキリストの再臨を取り扱っているとしか考えようがないので、そのようにしか読むことができない。他の読み方があれば、是非とも教えて欲しいところだ。
 というのも、この福音書記者は、記述されるおよそ五十年以上前に起こった十字架の処刑死というイエス・キリストの惨い死にざまを知っている。それが五十年以上前であったとしても、まだこの福音書が書かれた当時は十字架の処刑というのは健在で、奴隷や、政治犯が見せしめに受ける最悪の処刑方法であったことを認識している事を先ずおさえておくべきであろう。
 そこで、ついにその惨めな死から栄光の再臨を迎えた時のイエス・キリストの事を解りやすくマタイは書いている。「羊」と「山羊」とを分ける、ここに羊とか山羊とかに特に意味はない。意味があるとすれば、山羊と羊ではまったく違う動物だということであり、実際に人はそのイエス・キリストの再臨に際して、山羊と羊が分けられるように右と左に分けられると書くのであった。
 そして救われる羊に対して言う「お前たちは私が飢えていた時に食べさせ、喉が渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訊ねてくれた」と言う。
 これだと、まるで、誰かにボランティアして、食べさせ、飲ませ、宿を貸し、着せ、見舞い、訊ねる事が救われる生き方であると勘違いしてしまいそうだ。実は、この個所で一番、注目すべき所なのだが、救われないで、「呪われた者ども私から離れ去り悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」という極めて恐ろしい処罰が課される人々のことを考える時である。
 この羊として永遠の命与えられた人々と山羊として永遠の火に入れられた人の差を見て見ると、実はあまり差がないのだ。きっと、どちらの側にせよ人として真っ当に生きてきた人たちばかりである。ここが重要で、どちらの人もあえて、考えて、何かをしたというわけではなく、自然とそのおもむくままに生きていった結果がこの裁きの時になって明らかになって、びっくりするという話である事に注目したい。
 救われた人も火に入れられる人にも共通して言える事は、「いつ」「したでしょうか」「しなかったでしょうか」という図式である。両者共に全く意識していなかったという事が一番大事な所ではないだろうか。
 例えば、救われるためにあらゆる人々に親切にしようとか、しないとか言う話しになると、この個所の意味が無くなってしまう。つまり行為儀人とか信仰儀人とかいうレベルではなく、その人がその生きざまの中でどれだけ生きたかが問われるという、ある意味、とてもシビアな判決なのだ。
 イエス・キリストはその生き方において、食べるに困り、飲むに困り、宿がなく、着物が無く、病気であり、最終的には牢に入れられ惨殺されたのだった。はっきり言って、関わりたくない、そういう人だった。これがマタイの一番言いたい事である。関わりたくもないような人とどれだけ連帯したかということが問われている。世に置いては関わりたくないような人がたくさんおり、あえてボランティアして関わろうとする人がいるが、そんな事は関係ない。イエス・キリストの視座からして、どれだけ、連帯してくれたか、どれだけ関わってくれたかが問われているのである。そして、そこにおいての関わるか否かの決断、そのものが後に、自分では意識しなかったその「私の兄弟であるこの尤も小さい者」こそが、今私たちの前にいるイエス・キリストなのだ。
by qpqp1999 | 2014-11-22 19:12 | キリスト教