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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

聖霊降臨後第4主日礼拝説教 マタイ福音書9章35節~10章15節

聖霊降臨後第4主日礼拝説教 マタイ福音書9章35節~10章15節
 「イエスは町や村を残らず回って会堂で教え御国の福音をのべ伝え」とあるのだが、その内容、つまり「御国の福音」というのは一体どんな内容だったか書かれていない。21世紀を生きる私たちに対して、記者マタイは随分粗っぽい事を書いてくれたものだ。と、思わないでもないのだが、この「御国と福音」というのは次の段階でイエスの活動においてえがかれており、実はこれが伴わない信仰など信仰ではないことを思わせられる。
 つまり「群衆が飼い主のいない羊のように弱りはて、打ちひしがれているのを見て深く憐れまれた」という一節である。この「憐れむ」という言葉ἐσπλαγχνίσθη περὶ αὐτῶνエスブラにーセイアウトゥーンというのは「憐れむ」という上から目線ではなく、「痛みを受けた、痛みを共感した」という内容のものである。これこそが「御国と福音」そのものなのだ。
 痛みや苦しみを解ってもらえない上で、いくら憐れまれても、かえって状態が悪くなるばかりだ。大切なのは、その痛みや苦しみを共有してくれているという実感なのである。それが主なるイエス・キリストが私たちの、はした事であっても、その痛みを共感してくださり、解ってくださるというのが「御国と福音」なのだ。
 確かに痛みは無くならないかもしれない。苦しみは続くかもしれない、また病は治らないかもしれない。そんな時に、痛みが無くならないということに同じように痛んで下さること、苦しみを共に苦しんで下さること、そして、治らぬ病を共にして下さること、これが「御国と福音」なのだ。
 おそらく多くのキリスト教信者は「御国と福音」は洗礼を受けて天国に入れるようになるという一面だけに拘束されている事がある。確かに、この世で本当に苦しみ抜いた人生が、主イエス・キリストの贖いによって天国に入り、幸せになれるという、のは決して否定するべきではないキリスト教信仰の一断面だ。しかし、これだけでは、キリスト教はちっともつまらない、単なる二者択一の暴力的な宗教になりさがってしまう。キリスト教の信仰と言うのはもっと、もっと多面的なものなのだ、それが「御国と福音」であって、現在、今、苦しんでいる私と共に苦しんで下さり、果てにはそれが喜びと癒しに覆るというのが、マタイの主張したい点なのだ。
 続いて、ついに十二使徒の名があげられる。「ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、トマス、マタイ、ヤコブ、タダイ、シモン、ユダ」である。これは確かにマルコ書を伝承にして書かれたメンバーである。不思議なことにマルコ書の方が劇的に名前があだ名つきで紹介されるが、マタイはそれを省略している。というのも、マタイはそこにこそ意味を見出していて、たとえば、最古の福音書のマルコ書であればヤコブとヨハネには雷の子というカッコいいあだ名をつけたりして劇的なのだが、マタイ書ではそれを知っているにも関わらず、淡々と紹介している。せいぜい、徴税人で先ほど弟子になったマタイを強調している、あるいは主イエス・キリストを裏切ったユダについての言及がある程度だ。
 上述の通り、イエス・キリストの「御国と福音」とは、そこに苦しむ人がいるなら共に苦しむというものであり、これこそが癒しで、あり、悪霊の追放という状態であったことを思い出したい。「汚れた霊を追い出す権能をお授けになった」とあるが、これは、どこか、特別な超能力を与えられたというよりは「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやす」というのは、その苦しみを共有する力を持つということだということに気づかねばならない。
 それは現代でも同じである。人を傷つけるのではなく、また、人を押さえつけるのでもなく、むしろ、傷つけられている人と共に傷つき、押さえつけられている人と共に押さえつけられるという事を主イエス・キリストを信じる上で行動に移すのだ。これこそ、現代21世紀のキリスト者に対する主イエス・キリストが私たち、一人一人を使徒として選んで派遣されている状態なのである。 
 それは、一体どういう状況なのか、考えねばならない。たとえば、東日本大震災で被害を受けた人のために礼拝の祈りの中で
 「震災にあわれた人にあなた様の豊かな恵みがありますように」
などと祈っておいて、後は何もしない。こんなのが一番駄目で、偽善にまみれている状態なのだ。「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も履物も杖を持っていってはならない」とあるのが、まさにそのスタンスなのだ。一見、主イエス・キリストから派遣されたのだから清貧をうながしているかのような錯覚をおかしてしまうが、そうではない。
 たとえば、例に出した震災の事になるが、福島では今やとうとう、放射能汚染の「差別」が起き出している。福島に住むご高齢者が孫を福島によびたくとも、なんか世論的にそれが、つつましれてましうような状態になっている。もし、礼拝で福島に祝福を祈るなら、福島で苦しんでいる人と苦しみを共有する、実存的な行動が必要なのだ。それなくして、いくら礼拝で祈ろうとそんなものは、単なる偽善にすぎないのだ。
 つまり、マタイが徹底して、貧しい状態で弟子たちに権威を与えたのは、貧しく、苦しんでいる、痛みに苦しんでいる、哀しみに打ちひしがれている、そういう人たちと、それらを共有することこそが、宣教の大前提なのだと言う事なのだ。偉そうに上から目線で、いくら「祝福がありますように」と祈ったって、それは祈りではなく、単なるゼスチャーだ。祈りには実存が伴わなければならない。口先だけの偽善はもうキリスト教では通用しない。そのような類いの祈りはむしろ、誰にも見られない、聴かれないところで個人の苦しみを、その共有している苦しみの中で、主イエス・キリストにすがる、そういうものであるべきなのだ。
 だから、宣教者は何も持たない貧しい者であることが第一条件なのだ。それどころか、「町や村にはいったらそこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ旅立つときまでその人のところに留まりなさい」とどっちかと言うと、お世話になること、施しを受けることを宣教の第一条件にまでしている。受け入れられなかったら「足の塵をはらえ」とある。苦しみを認めないような者にはソドムとゴモラ異常のケリがつけられるのだ。
by qpqp1999 | 2014-07-05 19:45 | キリスト教