人気ブログランキング | 話題のタグを見る

牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

主の昇天主日礼拝説教 ルカ福音書24章44~53節

主の昇天主日礼拝説教 ルカ福音書24章44~53節
 私は牧師家庭に育ち、実直な父親の教えに、ほとんど洗脳といってもいいような状態で主イエス・キリストを信じるようになった。聖書に書いてある事は皆全部、歴史的に本当のことだと信じ切っていた。それでも、尚、疑問に感じていたのは、まさに主イエス・キリストの昇天という事態だ。
 何しろ、地球は丸い事くらいは知っていたし、空の向こうは宇宙だというくらいは知っていたので、この地上から引き上げられたイエス・キリストはどこへ行ったのか実直に不思議に思っていたし、現象として何がどう起こったのか理解できなかったものだ。
 実際のところ、この主イエス・キリストの昇天という現象はルカ福音書にしか無い。他の福音書には、イエスが天に引き上げられたという記事は一切ないのだ。つまり、福音書記者ルカの独自の資料であり、また、このエピソードは使徒言行録とつながる部分として、大きな意味を持っている。
 その半面、やはり天に昇って行くというのは、現実問題としてどうなのかと議論するのは空しいばかりで、紀元1世紀の頃の人のルカの感覚として、空は天国みたいなところに通じていると思って、そう書いたのだと、素直に受け入れるのも一つだと考える。
 現代でも人が亡くなったら、天に召される、とかいう表現をするように、ルカもまた、主イエス・キリストが天に昇られたと書いたのだ。そして、この現象は弟子たちとの別れではなく、使徒言行録で弟子たちが活き活きと主イエス・キリストを帯びてその道を進むことのプロローグであり尚且つ福音書のエピローグであるととらえると、昇天という現象がよく理解できると考える。
 プロローグである以上、これは私たちの生活にとってもプロローグであると信じて、聖書に向き合うことに意味を見出して行きたい。
 今日の昇天物語の前を観ると感慨深いのだが、復活のイエス・キリストが弟子たちの前に出現し、お化けだと思って、恐れた弟子たちの前で魚を食べてみせたというエピソードがある。魚を食べたからお化けではないというのも、なんか幼稚なように思えなくもないが、ルカは大まじめで独自の資料を用いて書いている。つまり、紀元1世紀末のイエスの伝承にはこういうものがあったということだ。
 今日の核心に至るために、予備知識として持っていたいものが、福音書の成り立ちである。福音書はまるまる全部、創作というわけではない。確かに、記者によって、その立場や方向性は異なってはいるが、基本的にその時点で得ている資料、つまりイエス・キリストの生涯についての何等かの伝承を編集して、書かれているということだ。
 そして、驚くべきことに、紀元70年以降から紀元1世紀末に書かれた、バラバラのものが等しく同じ方向性を持っているということである。それは、悲惨な十字架の中に輝く主の祝福という方向性である。あれこれ、四方八方に飛び散っている、それぞれの福音書なのに、何故か、この十字架と復活におけるベクトルは等しく同じ方向を向いているではないか。
 今でこそ十字架はネックレスになったりして、日本ではアクセサリーの一つとして、皆が喜んでつけているアイテムだ。どうかすると、カトリック教会の十字架みたいにイエス像まで作りこんであるのを喜んでアクセサリーにしている人も大勢いる。気持悪くないのだろうか。人を処刑するには、あまりにも残虐なこの悲劇を皆が喜んでアクセサリーにしているのだ。私はこれはいいことだと思う。
 キリスト教が保守勢力になった三世紀以降、この十字架は惨めな敗北の象徴ではなく、勝利の象徴になった。312年のローマ帝国の皇帝の座をかけた戦いで、コンスタンティヌス軍は軍旗にこの十字架を掲げた。それ以降、良い意味でも悪い意味でも十字架は勝利の象徴になった。後者の悪い意味は十字軍だ。たとえば、ナチス政権下のドイツの兵器を観ていただければ解るように戦車、戦闘機、爆撃機、それぞれに十字架が印されている。つまり、ナチス政権下のドイツは自らを十字軍として魅せようとしたのだ。そして、それはやはり勝利を求める者の象徴だったのだ。
 ここで、同じくナチス政権下のルター派の神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーはまさに、ナチスドイツの武器に託された十字架ではなく、本来あるべき十字架に進み、そして、実際に十字架を背負い、処刑された。
 実はこの歴史的事実こそ、今日の聖書個所、イエスと弟子の別れのエピソードそのものを具現化している。それは復活の意味と、主の真実に立つ在り方である。
 イエス・キリストは聖書の成就として「次のように書いてある『メシアは苦しみをうけ、三日目に死者の中から復活する』」と示す。しかし、当時の聖書、つまり現代の旧約聖書のどこにそんな事が書いてあるだろうか。ここまで、ストレートにイエス・キリストのメシアとしての状況を書いた書簡は旧約聖書には無いのだ。確かに、犠牲の羊のような事は書いてあるが、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」なんてどこにも書いてないではないか。であるから、その前のイエス・キリストの言葉は大切だ。
 「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」とある部分である。ルカは確かにイエスキリストの十字架の処刑と復活を旧約聖書の成就ととらえているが、ここの個所になったとたんに、もはや引用が不可能な言葉を繰り出した。そこで、「聖書を悟らせるために」という言葉がキーワードになってくる。「お釈迦様」でも悟るのに、えらく時間がかかったし、仏教では悟りを念仏に託すくらいに「悟る」というのは私たちにはハードルの高いものだ。まして、複雑な旧約聖書を悟るなんて途方もない事でしかない。しかし、主イエス・キリストはこれをただの一点に示した。「悟らせる」はσυνιέναιスゥネィエナイで、「一致させる」「同一にセットする」という意味である。つまり、弟子たちも、これから待ち受ける苦難に対して、主イエス・キリストがそうであったように、苦難の中に光を見出し、そこに福音、「悔い改め」を発現させるべきなのだという事が強調して書かれているのだ。
 真に聖書はその苦しみの中にある光の福音の一筋を天にあげられた主イエス・キリストの姿に見出すのであって、決して、おとぎ話でもなければ、作り話でもない。語られるべき真実なのである。
by qpqp1999 | 2014-05-31 18:54 | キリスト教