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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

復活後第四主日礼拝説教 ヨハネ福音書14章1-14節

復活後第四主日礼拝説教 ヨハネ福音書14章1-14節
 つくづく、世の中の動向、権力、保守、偽善というものには屁奇癖する。では私はどうなのかと問われるなら同じで、求めるものは確かに平和であるとか、平安であるとかであるが、その行きつく先は、結局、自分が優先されるものを求めている。
 なにしろ、日本国で生きていくにはお金がいる。また生活するには健康であるほうが望ましい。そこで、私たちはお金を求めるし、健康を求める。しかし、福音書におけるイエス・キリストの生き方の姿勢は違った。お金はいらない、健康を失っている人と共に連帯するというものだった。
よく、治癒奇跡というものが福音書において取りざたされるのだが、これは福音書の思惑によって書かれたものであって、現代の私たちがそれを、あたかも奇跡のようにして求めるのは不可能だ。事実、絶対に治らない難病だってあるし、例えがたい苦しみを、ひきうけて生きている人だってたくさんいるのだ。
今日の個所のイエスの説教の後半では、まるで「私に何かを願うなら私が叶えてあげよう」みたいに書かれているので、私たちは、勘違いして、イエス・キリストにお願いすれば、何でも可能になると思ってしまう。しかし、ヨハネ福音書の文脈に照らし合わせるとそうではないことが解ってくる。
 たとえば、亡くなってしまった人を生き返らせるのは不可能だ。たとえば、体にしても、心にしてもその傷は簡単には治らない。ところが、キリスト教信者はまるで、手をその体におき祈れば治るというような安直な事を思わないでもなのだ。事実、私だって体や心に傷を負えば、それが早く治るようにと祈っている。しかし、現実は、そうはならない事が多い。では、イエス・キリストの言葉は嘘なのか、虚言なのかという事態に私たちは向き合うことになる。
現状ではイエス・キリストの生き方を書きしるしたものは四つの福音書しかない。正典と認められなかった福音書はどれも、これも2世紀くらいに書かれたもので、信憑性というよりは、どこか勘違いして、掛かれているうなものが多い、もっと、はっきり言うと完全なる神話化になってしまっているものが多いのだ。
その点、正典福音書4書は信憑性とか神話化にするには、あまりにも残酷すぎて、おおよそ神話化とは程遠いものになっている。正典福音書は紀元一世紀後半から末期に書かれたものばかりだ。なぜなら、多くのキリスト教徒たちは、神の国が今にもくる。世の終末がいまにも来ると信じてしまっていたことが、この福音書の記述の遅れに関係している。
いくら、待てど暮らせど、世の終末は来ない。じゃあ、もうキリスト教なんて止めてしまおうかというくらいの時代に福音書は書かれている。であるので、正典福音書4書に共通しているのは、今をどう生きるか、今をどう信じるかが語られているのであり、来世がもう来るとか、終末がハルマゲドンみたいな状態で訪れるのではない事を、非常にクールに描写していることである。
よくお祈りしたのに叶わなかった、という類いの呻きがある。それは、まさに、その通りで呻きである。大抵の場合、私たちは叶えられると思って祈っているものだ。しかし、現実はそうはいかない、たとえば、本当に頑張って勉強して、そして、祈って、試験に臨んだのに合格しなかったということはままあることだし、祈らないでも試験に合格する人だって出てくるのだ。
そこで、「私の名によって」の「よって」と訳されているτῷ ὀνόματίトゥ オノマティは「よって」というよりは「一緒の状態になって」と私は訳せると思う。直訳だと「権威によって」のようなニュアンスなのだが、ヨハネの文脈からすると、これは、確かに、「私が父のうちにおり、父が私の内におられるゆように」との連携からすると、主に願うということはイエス・キリストと一身同体になってという意味が強く影響しているのだ。
つまり、イエス・キリストの主との一体性に私たちが、その思い、信仰によって、同じく一体となることが、願いの条件になっているのだ。
だから、もはや、私たちは、「ああして下さい」「こうして下さい」と主を召使みたいに対するのではなく、むしろ、主イエス・キリストが進まれた道。あくまでも、保守的、権力層にひるむことなく、「おかしいものはおかしい」と言って進んでいく。その姿と同じく姿勢を保ち前に進む時に、そう祈るべきなのだ。
実際、今日のヨハネ福音書は、他の福音書とちがって、エルサレムに一回だけいって騒動をクライマックスで起こすというより、物語の最初の方で、早くから、エルサレムに行って神殿で商売して我がもの顔している人たちの屋台をぶち壊し、暴れまくっていることが前半で出てくるのだ。
もちろん、これは保守的なユダヤ教に対する挑戦である。ヨハネ福音書記者のヨハネがおかれた状態がユダヤ教保守層から弾圧をうけ、生きていくのも苦しくなった時代に書かれたことを考えると、確かにヨハネはそのような意図でこの物語を描いている。
であるので、ここで問われているのは、私たちが、どれだけイエス・キリストの生き方に一致した生き方をするか、在り方をするかである。それは、究極的には十字架刑の処刑という事態にまで及ぶ。十字架刑で処刑されるのは極悪人でしかない。イエス・キリストは極悪人であっただろうか。たとえば、熱心党の反ローマ主義のテロリストであれば、そのように処刑されても仕方なかったかもしれない。しかし、イエス・キリストはそうではなかった。
世の中から差別され、抑圧され、社会的にも苦しんでいる人たちと連帯して、保守的宗教層、政治家たちに立ち向かっていったのだ。私たちはどれだけ、この生き方によりどころを持つことができるだろうか。むしろ、改めて持たねばならないのだ。
その時に起こる祈りの現象が「私の名によって願うことは何でも叶えてあげよう」という祈りの現象なのである。そこには、試験で一〇〇点がとれますようにとか、試験に合格しますようにとか、うまいこといきますようにとかという姿勢は一切ない。あるのは、主イエス・キリストと一心同体となって前に進んで行くというものであり、その時に祈りはたしかに叶えられるのだ。
by qpqp1999 | 2014-05-17 20:56 | キリスト教