人気ブログランキング | 話題のタグを見る

牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

四旬節第一主日礼拝説教 マタイ福音書4章1節~11節

四旬節第一主日礼拝説教 マタイ福音書4章1節~11節
 主イエス・キリストの十字架での苦しみを覚える季節の始まりが今日の個所である。「荒野の誘惑」と呼ばれる、よく知られている個所だが、ルカ書とマタイ書にしか無く、内容もほとんど同じなので、いわゆるQ資料をもとにして書かれたと言われている。
 「悪魔から誘惑を受けるため」「霊」に「導かれ」と書いてある。まるで、亡霊か何かに取りつかれたみたいに受け取られるかもしれないが、そうではない。むしろ主の導きという取り方の方がマタイ書の書きたいところではないだろうか。
 40日間の断食だが、現実にこれを行えば、人は死んでしまう。聖書では「空腹をおぼえられた」と書いてあるが、ἐπείνασενエペイナセンは「飢える」というほうが適訳ではないかと思う。この非現実的な断食は40という数字と関係がある。これはイスラエルの民の荒野での40年の放浪と関連づけて読まれる事を想定している。イスラエルは結局、この荒野の放浪の中で主の奇跡を得なければ、前に進むことができなかった。マタイはここに、注目している。それは、十字架の出来事を前提にしているということである。
 十字架刑はローマ帝国の刑罰で、尤も残酷な処刑方だ。最近の歴史研究によって、十字架につけられる前に既に、鉄球と鉄爪のついた鞭で散々打たれて、半死半生の状態になって、十字架の横木を担がされて,刑場に行かされるのだが、普通の人はそれが出来ないので、物見の人がそれを担がされることが多かったらしい。
 十字架という出来事の中に奇跡があっただろうか。無かった。しかし、イエス・キリストはあえて、この十字架に臨んだではないか。福音書において、たくさんの奇跡を起こしているのに、この十字架の出来事に関しては全くその力を発揮されなかった。
 それが、最初の悪魔の誘惑の言葉「神の子ならこれらの石がパンになるように命じたらどうか」対するイエスの応えは申命記8章3節の「人はパンだけで生きるのではない、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と返された。これは、勘違いされやすい個所だ。まるで、信仰があれば、食物がいらないとでも言っているかのように取られてしまうが、断じてそうではない。飢餓に苦しむ人たちが一方でいて、食べ飽きて残り物を捨てる人たちがいるのがこの世界の状況だ。そんな中で、「人はパンだけで生きるのではない」からといって、その文面のまま、この個所を理解してしまうのは間違いだ。
 前述の通りで、これは荒野の40年間の放浪の末、主の奇跡に頼らなければ生きることが出来なかったイスラエルの敗北と、その反対に十字架の死において、その主の業をなしとげられたイエスの勝利の差を語っているのであって、単純に、食べ物の事を言っているのではない事には注意したい。
 次に悪魔は、聖書の言葉を用いて、イエスに迫る。この部分はとても興味深いものがある。悪魔ですら聖書の言葉を用いて惑わしてくるのだ。ましてや、人間であれば、いかようにも聖書を用いて、間違ったことを言ったり、教えたり、洗脳したり、暴力を働いたりするだろう。
 教会だから、絶対安心だと言う事は無い、牧師が言うから間違いないと言う事もない。教会でも間違いを犯すし、牧師や聖職者たちでも間違いは犯すのだ。しかも聖書個所を用いて語ってはである。だから、ここで、マタイがわざわざ「神殿の屋根」にイエスを立たせるのも納得がいく。神殿に過信しないということがここで訴えられているのである。私たちはそれだけに、細心の注意を払って、聖書に取り組まなければならない。一番の間違いは教会だから、聖職者が言うから間違いないと過信してしまうことだ。悪魔はここで、イエスに対して聖書個所を持ちだして誘惑をかけてくる。その個所は詩篇91篇11~12節であり、「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」という魅力的な個所である。確かに詩篇にはそういった、主に対する信頼の言葉がたくさん書かれている。ただ、ここで、マタイが気をつけているのはイエスを「神殿の屋根」に連れて行ったことである。であるので、この悪魔が呈する聖書個所の引用は神殿の権威のもとに、語られたものであることが意識されていることに注意したい。それに対する、イエスの言葉として、申命記6章16節の「あなたの神である主を試してはならない」であった。
 ここでマタイが巧みに記しているのは、この部分の冒頭で「神の子なら」という条件をつけている事である。「神の子」はメシアの称号である。そして、新しいイスラエルの象徴でもある。であるので、上述の通り、真の「神の子」「イスラエル」は「神殿」やあらゆる「権威」に依存しない立場をとると言う事である。事実、イエス・キリストの在り方はそうであった。イエスの前にある、あらゆる権威に対して、アンチテーゼを打ちだしたのがイエスの生涯そのものではなかったか。そして、その、結果が十字架処刑であり、そして、それこそが「神である主を試してはならない」ということであったのである。今や教会は一種の権威である。マタイがちょうど指している「神殿」がそれに当たる。マタイ書が書かれたのは紀元70年以降、エルサレム陥落の後である。ユダヤ教の一派としてユダヤ教の権威の下にいたキリスト教は滅びてしまった。そして、残っているのは、ギリシャ語を話すキリスト者だった。マタイはそういうキリスト教教会の歴史の流れを意識しているのかもしれない。
 最後に悪魔はイエスに「すべての国々とその繁栄ぶり」を悪魔に「ひれ伏す」なら与えようと言ってくる。ここで、聖書の構成上とても興味深いのは、この悪魔に対するイエスの言葉は、この福音書に二回出てくる。16章の23節である。十字架の受難の予告をしたイエスをたしなめるペトロに対する、あの言葉だ。
 「退けサタン」である。ここで、私たちは、改めて、四旬節の第一主日にこの個所が与えられている意味を知るのである。このマタイ書においてイエスの活動前の出来事は、はじめから、用意された十字架への道筋そのものだったのである。
 果たして、キリスト教は本来あるはずの姿から現在では保守権威的な力のある団体になってしまった。その中に私たちは信者として生きるのである。その意味で、私たちは、イエスのこの「退けサタン」「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という申命記6章13節の言葉を改めて、この四旬節の第一主日に心に刻みたいと思うのだ。
by qpqp1999 | 2014-03-08 18:36 | キリスト教