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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

聖霊降臨後第13主日礼拝説教 ルカ福音書16章1-13節

聖霊降臨後第13主日礼拝説教 ルカ福音書16章1-13節
 ルカ書特有の伝承である。ルカ書というのはお金に厳しい態度をとる書簡てある。献金どころか、全財産を同じ信徒と共有すべきだとすら使徒行言録にはしるされているらしい。
 そんなルカ書ならではの、お金にまつわる問題を福音書として提示している。しかし、実際の所、それが牧師家庭であれ、お金の世話にならないわけにはいかないのが世の中である。そもそも、土地を買うという時点で文明はどうかしている。大体、地面は誰のものでもないはずなのに、勝手に誰か偉い人が地面を財産に変えてしまった人類史を見ると、少し呆れてしまう。しかも、地面は地下10メートルでがその財産であってそれ以降は、国のものになっているのが日本国である。
 福音書伝承としては珍しい個所で、「不正な管理人」というタイトルで新共同訳では書かれているが。この「管理人」はどうやら収賄していたらしく、それを密告する者が現れ、主人に問いただされるというのが始まりであるる。断じて言うが、収賄というのは許されざるべき問題であることは明確にしておきたい。むしろ、ここで論じられているのは、「不正」を働いた「管理人」のお金の運用がむしろテーマになっている事である。
 実に言うと、この主人はこの「不正な管理人」の手口を知っていて、また、そのやり方を見て、褒めてすらいる。そこに主にある中でのお金の使い方をまさにルカは書いているのである。記者ルカは、福音書と使徒行言録を書いているが、そこに濃厚なのは、お金の問題である。前述の通り、キリスト教共同体は財産の区別なく、その財産を共有すべきだとすら書いている。自分のために富を立加える者はおろか者であり(12章16~)食べるものや着るものに思い悩むのではなく、財産を売り払って天に宝をつめという(12章22節~)それくらい、お金についてルカ書は他の福音書に比べて、圧倒的に信仰との在り方とお金についての問題を提議しているのである。
 このたとえ話に出てくる「不正な管理人」の話しだが、そもそもお金というものは何なのだろうか。たとえば、厳格なキリスト教会であれば、収入の十分の一を献金しなさいと強要される。私の場合、強要ではなく、自ら進んで、そうしてきた。また十分の一献金を古びた固定観念のようにあしらう牧師たちにもたくさん出会い、そのたびに違和感を覚えたものだ。しかし、一度視点を変えると、まるで、教会組織の存続のためにお金を要求されているようにすら思われてしまうのが残念な所だ。私は牧師をして20年以上になるが、所得の多い人ほど、この十分の一献金に程遠く、所得の少ない人の方がこの十分の一献金をしている傾向があるように感じる、また、その一方で、十分の一以上の多額の献金を、自らの信仰の歩みとして捧げつづけている人も稀におられる。ルカ的に観れば、最後尾者の方が最も恵めまれるべき存在となることになる。
 それにしても、どうみたって、この「不正な管理人」のやり方はエゴイズムに満ちていることは確かだ、そこに信仰の類いの入る余地は無い。あるのは自己保存の方向性だけで、そのためならば、いかなる手段もいとわないというのが正直な感想だ。 
 実はこの、いかなる手段もいとわないというスタンスがこの個所の大事な部分になってくる。そんなこと言われたら、何をしてもいいのですか、という話しになってくるのだが、そうではない。ルカ書のスタンスは、この、いかなる手段もいとわないという方向性を信仰にひっぱってくるのだ。そこが、ルカ書の大事な部分である。
 ルカ書では「貧しい者は幸い」であり「富める者は災い」という極端なまでのお金のあり方を示す、その一方で、今日の個所のように、お金を収賄していて、ついにその職をとかれるという事態に直面した、たとえ話の主人公のやり方である。
 すでに、この主人公は一手先を読んでいて、このままだと職を失うことになることを把握している。しかし、「主人は管理の仕事をとりあげようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい」とストレートな反応を示す。正に、危機だったのである。
 人というものは危機に直面した時に、その人となりがよく浮かび上がるものだ。藪かぶれになって、犯罪に走ったり、その場しのぎを続けて、負債を増してしまったりする。ここで、面白いのは、このたとえ話しに出てくる「不正な管理人」は決して、破れかぶれになることもなかったし、その場しのぎもしなかったとう所であろう。
 「そうだ、こうしよう、管理の仕事を辞めさせられても自分を家に向かえてくれるような者たちを作ればいい」である。正直なところ、失笑してしまうくらいな冒頓さである。そこで、この「不正な管理人」のやったことは、借金に苦労している人を助けるという事だったのだ。実は、このたとえ話で一番見落とされているのがこの部分だ、それまでは、高飛車に借金を奪い取っていた人が、いきなり、借金している人の立場になって、その人のために一肌脱ぐことこそ、自分の生きる生命線だと考えたのであった。例によって、ルカ書特有のお金にまつわる逆転劇がここでも打ち出されるのである。
 つまり、ここで言われているたとえ話はズルをしなさいということではない、ということである。むしろ、そのような危機的な状況になった時に、共にある弱者の側につきなさいということなのだ。もはや、自分は、その弱者の立場にいるのだから、弱者の立場とその状態を共有することこそが、この「不正な管理人」のとった手段なのである。
 「主人に借りのあるものを一人一人よんで」とあるが、これは解りやすく言うと、この「管理人」の「主人」に借金している人ほ一人一人よんだというほうが解りやすいだろう。借金は古今東西を問わず、弱者が背負わされる経済システムの代表である。だから、ルカ書はここにメスを入れたのである。けっして、ズルしていいという話しではなく、この世の経済関係のあり方についてキリスト教的に、あっていい在り方を示しているのだ。
 最初の人に「うちの主人にどのくらい貸りがありますか」ときく、すると「油百タル」だと言う、すぐ差に、この「不正な管理人」は「これがその証文ですいそいで、座って、50タル」と書き直しなさいと言う。他の人には「小麦百袋」とあるのにそれを「これがその証文です80袋と書き直しなさい」とやったのだった。実を言うと、これは「貧しい者の立場にたって、行動する」というルカ書ならではの伝承なのである。決してズルせよとという意味ではなく、初めて自分が貧しい者になる時に、貧しい者とその状況を共有するということなのである。
by qpqp1999 | 2013-09-22 15:00 | キリスト教