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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

聖霊降臨後第13主日礼拝説教 ルカ福音書12章49~53節

聖霊降臨後第13主日礼拝説教 ルカ福音書12章49~53節
 普通に読んだら、衝撃的な個所なのだが、実は、同じような伝承がマタイ10章にみられる。私だけなのかもしれないけれど、どちらかと言うと、マタイの伝承の方が、よく知られているのではないだろうか。今日のルカ書では「火を投ずる」になっているがマタイ書では「平和ではなく剣をもたらすために来た」とあって、こっちの方が私は解りやすい。要するに、キリストの側に立つか、尤もこれが何を意味するかは後述するが、そうでないかという切り分けとしてだと解りやすい。しかし、ルカ書は違う。「私が来たのは、地上に火を投ずるためである。」ともう、これは確実に戦のことを連想させる言葉だ。マタイだったら、そのあり方で世の中や家庭から切り離されても、尚、それを維持するというような感じでとれるけれども、ルカの場合は初めから、戦になっている、つまりイエス・キリストはこの世に戦をしかけるために来たといっても通ってしまうような書き方だ。確かに、それは戦であった。問題はその戦というのが、実際の戦争のことを指しているのではないということが大前提だし、実際イエス・キリストは反ローマの革命家とはまったく違ったスタンスで活動していたのだった。そして、そのスタンスこそが戦であった。その戦の勝利は十字架という「洗礼」によってなされた。
 ここで、「洗礼」と十字架を短絡的につなげるのには、いささか抵抗がある。そして、また、イエスの「洗礼」というのは、今、教会で行われている「洗礼」とはまるで違うことであることは認識しておかねばならないだろう。
 「その火が既に燃えていたらとどんなに願っていたことか」という言葉がある通り、イエス・キリストは世にはびこる酷い状態に対して対抗する。抵抗する。闘うという積極的なあり方を問うている。たとえば、Genderジェンダーという概念即ち、社会的に男性、女性という社会的、文化的な性のありよう。これは、この最近随分と変わってきた。たとえば、戦前の日本では女性に投票権がなかったのだ。しかし、実は、大正時代から女性にも選挙権をという議論や活動や政治的働きもあったのだが、それらは成功しなかった。しかし、実際にそこに戦いがあったのは事実である。
 イエス・キリストの「その火が既に燃えていたらとどんなに願っていたことか」とはまさにこの類いの、ことである。戦争のことでは断じてない。しかし、闘い、戦いであることには間違いはない。その意味でイエス・キリストは「私が来たのは地上に火を投ずるためである」という言葉は非常に意味深いものになってくる。そして、実際のところ、イエス・キリストは戦ったのだ。相手は、ユダヤ教保守層、あるいは世の中の偏見や、差別、そういうものと徹底的に闘ったのがイエス・キリストだったのだ。
 たとえば、現代において、特に、私は日本に住んでいるのだから、その立場から、このイエス・キリストの言うところの「火」を燃やさねばならないのだ。問題は何に対して、この「火」を燃やすのか「戦」をするのかということである。
 どういうことで、そうなったのか、自分ではさっぱり解らないが、私は性同一性障碍だ。生物学的には男性として産まれたが、性自認は女性だという、ひじょうにやっかいな現象が発現したのが、小学生の入学式の時だった。幼稚園までは男女の差なく皆で列をなしていたが、小学生の入学式の時に、普通に女子の列に並んだら、「あなたはこっちですよ」と先生に男子の列に並ばされた。それが最初の違和感だった。しかし、性同一性障碍という概念自体が発生したのが1990年代後半だったので、私は随分と苦しんだものだ。今もその苦しみを抱えて生きている。実は、それが、「火」なのだ。主イエス・キリストが投じた火が私の人生にとってそうなったのだ。以降、私はセクシュアルマイノリティーの人々と連帯することになる。その時点で、もう「戦」だ。セクシュアルマイノリティーと言っても様々で、性的指向だけいっても「他性愛者」「同性愛者」、「両性愛者」と三つもあるわけれだ。しかもこれは、あくまで性的指向であって「性自認」ではないから、話しがさらに複雑になる。たとえば性同一性障碍で生物学的には男性に生まれたが、自分を女性だと認識している人は「性同一性障碍」ということになるのだが、だったら性的指向も生物学的女性と同様に男性になると思っているが多いが、現実には違う。私がそうだった。性的指向は女性だった。だから、混乱が起きてしまうのだった。今でも、ホルモン治療で乳房を持った私の体を見て、母親は「化け物」と差別的なことを言う。多くのケースではまずは母親が最初の理解者になることが多いのだが、私の場合は違う。もう、その時点で「火」がついている。しかし、私は戦う。火をもたらす。どれだけ差別されようとも、私は私の性自認についてはっきり立場を示すつもりだ。
 つまり、イエス・キリストの言う「火を投ずる」というのは、そのような戦いのことを指すのである。世の中の常識だとか、決まりごとだとか、力のある者が無いものを引きまわし、才ある者が才無きものを貶める。そういうことが、社会の常識として平然と通っているのが、「先進国」であるはずの「日本」なのだ。だったら、そういうものに、反対し、そういうことで、ひどい目に遭っている人と連帯すること。これこそがイエス・キリストの投じて下さった「火」である。
 そして「火」である以上、それは戦なので、敵対関係がおのずと生じてくる。「私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか、そうではない。言っておくが分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人と三人と対立して分かれるからである。」
まさに、一字一句そのとおりだ。私たちは戦わねばならない。ガンジーのように、ボン・へッファーのように、マルチン・ルーサー・キングのようにマルコムXのように、マザー・テレサのように、私たちは今、目の前にある社会構造における弱者を踏みつけにしている社会で戦わなければならないのだ。その先駆者がイエス・キリストだったのである。その「洗礼」が仮に十字架の処刑死という惨めなものであったとしても、むしろ、そうであればこそ、私たちたちはこのイエス・キリストの投じて下さった「火」を大事にして闘うべきなのだ。
 その戦いの場所は、今日、この聖書個所を読む人、それぞれにあって異なるであろう。全ての差別や偏見を背負えるのは無理だ。ならば、自分の立ち位置の中で、イエス・キリストの投じてくれた火を見つけ、戦うことが今日示されたのである。
by qpqp1999 | 2013-08-18 17:55 | キリスト教