人気ブログランキング | 話題のタグを見る

牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

顕現後第三主日礼拝説教 ルカ福音書4章16~32節

顕現後第三主日礼拝説教 ルカ福音書4章16~32節
 顕現節は「公現節」ともよばれる。しかし、ユダヤ教的なルーツがある。それはユダヤ教の「ハヌカー際」を引き継いだものであるということである。宗教改革の権化であるマルティヌス・ルターが自身の手によって翻訳した旧約聖書から、ちょうど戦っている「贖宥状」を正当化するような個所が「マカバイ記」にあったので削除したのだった。マカバイ記は第二ユダヤ教王朝時代を背景に書かれているのだが。これは歴史的に注目するべき個所である。イスラエルはバビロニア捕囚後、ペルシャの支配を受け、ローマ帝国の支配を受けることになるのだが、このペルシャ支配時代に一時期、王朝を回復した時期があった。アレクサンドロスの支配はバビロニアにも及んだが、あっけなくアレクサンドロスは死んでしまう。そして、その家臣たちは領地を分け合って支配したのだった。ユダヤはセレウコス朝の支配下におかれたが、その支配に立ち向かって独立戦争をしたのだった。そして、その独立戦争にユダ・マカバイが勝利し第二のイスラエル王朝であるハスモン王朝を開いたのであった。それが紀元前160年代のことである。このエルサレム神殿奪回をした戦争に勝利したことを祝うのがハヌカー祭であり、これが、今日のキリスト教の教会歴の「公現節」「顕現節」に繋がっているということは、キリスト教徒なら豆知識として知っておいた方がいい。そして、まさに、その主の勝利が、イエス・キリストの「顕現」においてなされたのであるという意味で、ますます、この「顕現節」は重要な立場をしめるようになるのである。
 さて、そこで今日の顕現節に選ばれている個所はルカ書の4章16節以降である。普通に読み流してしまうと、平行記事のあるマルコ書、マタイ書と混ぜこぜになってしまうのだが、ルカ書は確かに、マルコ書を踏襲しながらも、ルカ書ならではの立場を明確に打ち出していることに注目しなければならない。イエス・キリストの故郷のナザレで、イエスが散々に罵られて、受け入れられなくて、奇跡が行えなかったという話しはキリスト教徒ならみんな誰でも常識的に知っている話しであるが、ルカ書ではそうではない、ということが、今日の聖書個所の最も重要なところなのである。
 端的に言うなら、平行記事のある最古の福音書マルコ書でも、また姉妹書簡であるマタイ書でも、このイエス・キリストの故郷であるナザレで人々に受け入れられないし、奇跡も行えなかったというのは有名な話である。ところが、よく、ルカ書を読んでいただきたい。ルカ書において、はたして、他の福音書のようにイエス・キリストが弟子を引き連れて、奇跡につぐ奇跡を行ってきたかというと断じて違うのだ。それが今日の聖書個所の最大のポイントであろう。ルカ書において、イエス・キリストがこの故郷たるナザレに帰ってきた時には、まだ弟子をもっておらず、奇跡行為を何一つ行っていなかった、ということは大変に注目すべき点なのである。ルカ書の構成において、このナザレの出来事は他の平行記事を持つ福音書のように癒しの奇跡を散々行い、弟子たちを引き連れてやってきたイエス・キリスト像とは全く別であるということが大事である。
 ルカ書の構成を見ると奇妙な事がわかる。ルカ書ではイエス・キリストは40日間の断食で悪魔の誘惑に遭う訳だが、ここで端的に悪魔の三つの誘惑に対してイエス・キリストの立場が三つ表明される。「奇跡に頼らない」「豊かさより貧しさが大切」「権力や保守に頼らない」という三つの表題である。この三つの表題をかかげてから、イエス・キリストは「霊の力に満ちてガリラヤへ帰られた」のであった。つまり、イエス・キリストはその立場表明と論説のみで、評判を上げていったというのがルカ書の伝承の用い方なのである。この点に、まさしく主イエス・キリストの「顕現」「公現」の意味があるであろう。
 14節でその評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」とあるので、他の福音書のように奇跡や癒しをたくさんやって評判が上がったというのではなく、イエス・キリストの聖書の読み解きが評判になって評価されたというのがルカ書の最初の主張なのだ。まさにルカ書にふさわしいイエス・キリストの第一幕である。そこで、奇跡も癒しも何もないイエスキリストに渡されたのはイザヤ書6章であった。「主の霊が私の上におられる、貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油注がれたからである」とルカ書におけるイエス・キリストの活動の第一声は奇跡でもなければ、癒しでもなかった。「貧しい人に福音を告げ知らせる」ことであるということが殊更に強調されて記されているのである。ここからのルカ書の展開に目が離せない。まず、その状況設定が「安息日」のユダヤ教の大切な儀式の場であったことである。そして、その時点でイエス・キリストは一切の癒しや奇跡を行っていなかったということ。そして、それにも関らず、イエス・キリストの言葉はそれを聴く人々に対して相当な打撃を与えたということである。「そこでイエスは『この聖書の言葉は、今日あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」のであり、人々は「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った」のである。つまり、イエス・キリストはあくまでも聖書の論説を基に人々に語られ、その言葉自体が非常な影響力と主の栄光を現わしていたということなのだ。そこが、他の福音書と随分違うところなのだ。これは現代を生きる私たちに、とても大切な個所である。私たちのどこに奇跡や癒しがあるだろうか。私は奇跡もなければ、癒しもないあまりにも言葉にならない現実の中で生きてきた。そんな私に、紀元0世紀の奇跡や癒しなど意味はない。ところが人々はそういうイエスの身の上が貧しいことを基にしてイエスを排除しようとした。しかし、主の業はそのような人間の価値観や保守的観念によって左右されるものではない。むしろ、そのように「差別」されるような事態になってからこそ、主の真の奇跡は起こるのだというのが、今日の聖書個所の重要な部分である。崖っぷちまで追い詰められ、突き落とされそうになったイエス・キリストがいかにして人々の間をすり抜けていったかについてはルカ書は沈黙したままでいる。言わば、これこそが最初のイエス・キリストの最初の奇跡だったのである。「貧しい」人から最初にはじまる救いという主張は、いかに強大な保守的な力をもってしても付き落とせないという福音に通じているのである。それ故に、私たちは、このイエス・キリストの立場、あり方に従うべきなのだ。奇跡も無ければ癒しもない。そこにあるのはイエス・キリストという「油注がれ」し主の「人」という、身近な現実であり、それこそが福音であるということである。
by qpqp1999 | 2013-01-20 17:02 | キリスト教