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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

聖霊降臨際主日説教 ヨハネ福音書15章26節-16章4節

聖霊降臨際主日説教 ヨハネ福音書15章26節-16章4節
 聖霊がエルサレムにいた使徒たちに与えられ、いよいよ教会が誕生したという記念主日である。確かに、イエス・キリストの弟子たちはエルサレムで活動をしたが、それは今日考えられているような教会という体裁のものではなく、あくまでもユダヤ教の一分派であったことは確認しておくべであろう。尤もなことに、弟子たちの拠点は依然としてエルサレムであり、神殿での活動が行われており、使徒書からはそういうユダヤ教の本山であるエルサレムの集団がより優勢な力をみせており、そうではない「キリスト者」たちは格下に見られてすらいたことがわかる。キリスト教の根幹を作ったといっても過言ではないパウロですら、当初はエルサレムで活動している「キリスト者」たちと、どうかすると対立すらしていたのであった。
 そういう歴史的な事実からひも解いて行くと、一体「聖霊」とは何であるのかという認識の問題が浮上してくる。まずもって、ギリシャ語原典の「霊」を示す言葉が、今日与えられている福音書と使徒書ではちがってしまっている。ヨハネ福音書であればπνεῦμαプネウマという「霊」に関してπαράκλητοςパラクレートスという解説があり、使徒言行録ではπνεῦμαプネウマということだけになっている。
 キリスト教がユダヤ教の一分派からキリスト教となり力を徐々につけていく段階で本来一神教であるはずのユダヤ教の分派であるキリスト派は、いつのまにか父なる神、子なる神、聖霊なる神という多神教になってしまったのだった。そういう宗教としてのキリスト教の成立過程を認識した上で、「三位一体」という教義が現れてきたのであり、そもそも、論理的にこの状態を説明するのは無理であることを知るべきである。しかし、論理的に無理であったとしても、キリスト教のとる信仰の立場は、やはり父と子と聖霊は一つであるということは保たれなければならない。ひっくり返して言うなら、それらが一つであろうとなかろうと、キリスト教の発する救いというものには、あまり影響をもたらすものではないということも一方で事実である。「三位一体」でなければ恵みがないかといえば、そんなことはない。そういう中でヨハネ福音書に接する時、実は、この論理的に解説不可能な「三位一体」の原点ともなる言葉に満ち満ちでいることに気付かされる。「私を憎む者はわたしの父をも憎んでいる」「わたしが父のもとからあなたがたにつかわそう」というようにヨハネ福音書の記された紀元1世紀に既に、三位一体の伝承、教義があらわれているのである。つまり、そういった信仰のあり方の中で三位一体は成立することになるのである。
 熱狂的な「福音主義」の教会においては、「聖霊」というものを極端に重要視している。「聖霊」というものをまるで心霊現象のように発現することがなければ、それは「救い」の外にあるというような主張である。これは完全なる「救い」の「絶対化」であり、宗教の中にそのような「絶対化」が起こるとき、そこには暴力が発現することに注意しなければならない。むしろ、この「聖霊」に関しては、「絶対化」ではなく「相対化」される作業が信仰の中で起こる時に、真の恵みを体験することになるのではなかろうか。
 使徒言行録が書かれたのがおそらく紀元80年かそれ以降と推察されている。まだ、この使徒書が書かれた時期では、キリスト教にはなっておらず、ユダヤ教の一分派として成立していたと思われる。それゆえ、エルサレムにおいて「聖霊の降臨」があるわけだ。しかし、ヨハネ福音書の記された時代は明らかに1世紀くらいで、ユダヤ教から異端とされて、もはやシナゴーグから追放される事態にまで追い詰められていたことは、ヨハネ書をざっと読むだけですぐにわかる。今日の個所はあからさまにキリスト教が迫害される状態にあり、殉教の事態まで起こることが記されている。つまり、ユダヤ教の一分派であった「キリスト派」「ナザレ派」がキリスト教になったのは、「聖霊降臨」によるのでもなければ、「異言」を発して、さまざまな国の人たちに話しだした時点でもなく、異端として迫害されるようになってからであったということは、キリスト教史を把握する上で重要である。
 紀元70年にエルサレムは陥落し、ユダヤ教は神殿を失い、ファリサイ派がユダヤ教の中心的存在になり、紀元85年以降続いて行くヤムニア会議において、改めてユダヤ教は新しい宗教の体裁を整えようとした、その際に、18の祈願の改定の中にキリスト派を異端とすることが決定され、キリスト者たちはシナゴーグから追放されることになったのだった。ローマ帝国でもドミティアーヌスがはじめてキリスト教の弾圧にものりだしたのだった。そんな状態ではキリスト者でいるということは、迫害され、ともすれば殺されるという極限状況に追いつめられたのだった。そこで書かれたのがヨハネ福音書である。1章から明らかなように、イエス・キリストと「世」の対立構造が濃厚に記されている。今日の個所ではより強烈に「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかもあなたがたを殺す者が、皆、自分は神に奉仕していると考える」とまで踏み込んでいる。
 迫害され、社会から追放され、処刑されるという事態のどこに救いがあるのか。実は「聖霊」というのは、迫害される、今日の日本でいうならさまざまなハラスメントに苦しめられる、そのような時に活きて働くイエス・キリストの力であるということが明らかにされていることに注目するべきであろう。また、宗教を超えて、人権が侵害されている、命が侵害されている現代社会の状態について、まさに「相対化」されて、それらの苦しみの中にこそ主イエス・キリストから「つかわ」される「聖霊」の働きが生み出されるのである。それは、時に人権を弾圧している政府にたいする抗議であり、それは時に身近に起きているハラスメントに対する取り組みである。そのような実存的な働きを支えてくださるのがまさに「聖霊」ヨハネ書では「弁護者」παράκλητοςパラクレートスであるのだ。このパラクレートスは「協力者」という意味を持ち、尚且つ、裁判のための用語でもある。 「これらのことを話したのは、あなたがたをつまづかせないためである。」ここに至って、キリスト者が言う「聖霊」というのは、私たちがあらゆるハラスメントに苦しみ、あるいはあらゆる痛み、悲しみの中にある時に、主イエス・キリストを呪うのではなく、逆にイエス・キリストから発している「協力者」たる「聖霊」の存在に依存していいのだということ。また、おおいにその「協力者」と共に、その苦境をあえて進んでいく力が与えられることを恵みの体験として証しするべきであることが書かれている。この「聖霊降臨際」この、奇跡たる「聖霊」の働きに実存をもって信仰生活を実践する恵みを確信したい。
by qpqp1999 | 2012-05-27 19:34 | キリスト教