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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

復活後第二主日礼拝説教 ヨハネ福音書21章1-14節

復活後第二主日礼拝説教 ヨハネ福音書21章1-14節
 人はどのようにして、求めていたものを見つけるだろうか。人によって、求めていたものを得た人もいれば、求めているものを未だに得ないでいる人もいる。また、もしかすると、求めているものは一生手に入らないのではないかと諦めの気持をも持っている人もいる。今日の個所は、どのように読んでも、明らかにヨハネ福音書のつけたし部分であることは明白である。書いた人が、一旦、終わっている福音書に、それを付け加えたことが本書の20章30節で明らかにされているからだ。しかし、記者はこの部分を必要と考えた。
 そこで、矛盾も生じている、一度復活のイエス・キリストに会っているのに、今回またわからないという矛盾である。これは記者もわかっていて、あえてこう書いている。それだけ、この伝承は信仰にとって重要なものだという価値観がそこにある。
 最初、弟子の筆頭たるペトロが「『わたしは漁に行く』と言うと、彼らは『わたしたちも一緒に行こう』」と言うのだった。イエス・キリストに従って、その職業たる漁師を止めて網を投げ出した人たちが、イエス・キリストを失ってからまた、もとの生活をとりもどそうとするのだった。漁師は漁をして、死んだ魚をやりとりしてし、その間に日が暮れて、安息日になり、つまり、血と死の汚れを安息日までひきずらなければならない職業であったことはとても重要なことだ。当時のユダヤ社会では罪人とみなされていた人たちだった。実はイエス・キリストの弟子となるエピソードは共観福音書とヨハネ書とでは、随分違う。共観福音書ではイエス・キリストがペトロたちを招くのだが、ヨハネ書では洗礼者ヨハネからの勧めで弟子となり、やがて他の弟子たちが集められる形になっている。それだけに、領主のヘロデ王から処刑すらされた時の人であった洗礼者ヨハネからの勧めがあって、ついて行ったことには重みと信頼があった。また、実際そのようにして正解であった、ただ、十字架の出来事で全てが、粉々になった。そこで、また「漁師に戻ろう」としたのだった、そんな時のエピソードとして今日の復活のイエス・キリストは描かれている。
 彼らは確かに、罪人とみなされていたかもしれないが、次の日を生きていくためには漁師に戻るしか選択肢がなかった。ところが、「その夜は何も捕れなかった」のだった。彼らは魚を捕ることに関してはプロだったが、それでも駄目だった。
 新しい人生の最初の仕事が駄目だったのだ。そこへ復活のイエス・キリストが顕れる。しかも「岸に立っておられた」のだ。生身で、人生のやり直しに挫折している人を見てくれていたのだ。こんなに暖かい復活顕現の物語はここにしかないだろう。「だが、弟子たちには、それがイエスだとは分らなかった」のである。「岸から200ペキス」は100メートルの距離だ。三年近く連れ立った恩師であるし、こないだ復活して会われたばかりではないか、なぜに分らないのか不思議でしようがない。じつはこの「分らな」いというところが重要なのだ。明け方に湖の岸をほっつき歩いてる人は普通ではないということであり、弟子たちには復活のイエスが、マグダラのマリアにとって「遺体を扱う賤業」の人と思われたのと同様に、明け方に野宿するほどの、「隔離された病人」か「問題児」にしか見えなかったのだ。
 イエス・キリストの声かけは優しい「子たちよ何か食べるものがあるか」である。要するに「腹が減っているのだが、食べ物はありますか」という意味だ。弟子たちの反応は冷たいものだった。ἀπεκρίθησαν αὐτῷ• οὔ.アペクリーサン アウトゥーン ウー。である「ありません」と答えた だが、正確にはοὔ ウー は「無い!」だ。「ありません」というような丁寧な言葉ではなく、ほとんど、厄介者に対して吐きかけるような言葉として記されている。じつは、そんな風に言いたくなるのも当然であった。台無しになった人生をもう一回、漁師に戻って再起しようとして、徹夜して頑張ったのに、何等の成果も得られず、がっかりしていた矢先だったからだ。どこかの「厄介者」が食べ物をねだってきたらよけいに腹も立ったことだろう。ところが、次の展開が素晴らしい、「船の右側に網を打ちなさい、そうすればとれるはずだ」だ。実はこれは新共同訳ならではの意訳がある。βάλετε εἰς τὰ δεξιὰ μέρη τοῦ πλοίου τὸ δίκτυον, καὶ εὑρήσετεバレテ エイス タ ディクサ メルン トウ プロイオン トゥ ディクトオン カイヒュレーステで「右手に網をうってみな、そうすれば」見つかるよである。καὶ εὑρήσετε カイヒュレーステは「そうすれば見かかる」なのであって、「とれるはずだ」というというのは原典に近いものではない。
 と私たちは見つけることができるだろうか。その結果は見つけるどころの騒ぎではない。漁のプロフェッショナルが徹夜してできなかったことが、復活のイエス・キリストの一言で逆転するのだ。これこそ、この第四福音書の最終章の最初のクライマックスである。
 「そこで網をうってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった」のだった。ルカ書に並行記事があるが、これは弟子の召命物語にある通りである。しかし、多くの聖書学者はルカ書から三十年ほど後に記された、こちらの伝承の方がより古いものだとしている。そうかもしれない、それくらい劇的な物語だからだ。イエス・キリストの故に散り、自分のために立ち上がろうとして挫折し、そこに散った原因のイエス・キリストが顕れて、自分を再び立ち上がらせて下さるという奇跡が描かれているのである。これは、単に、魚が大漁だったという話しとはちがう。ここに描かれているのはイエス・キリストの復活が、私たちの生きるその時点において起こるということなのだ。はたして、史実上のイエス・キリストは復活したのだろうか。驚くべきことにクリスチャンですらこの復活を否定する方もいる。しかし、復活とは、単に紀元0世紀の青年が、政治的、宗教的保守層と闘って、その結果、処刑され、それでも復活し、その後に弟子たちが殉教してまでしてその出来事を証しし、ついには世界人口の四分の一のキリスト者をうみだすに至ったという事実が証明している通り、私たちの人生に、起こる出来事であるということを、このヨハネ福音書の補完伝承は力強く語っている。
 イエス・キリストの復活とは私たちに「見つける」ことを出来事として与えてくれる非情に実存的なものである。だから、私たちは、主イエス・キリストの復活の信仰をまさに、主イエス・キリストから呼びかけられたとおりに、生き方の網を打つべきなのだ、その時、奇跡が起こる。私たちの奇跡ではない、復活の主イエス・キリストの奇跡が具体的に起こるのだとこのヨハネ福音書補完伝承は伝えている。
by qpqp1999 | 2012-04-22 12:32 | キリスト教