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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

聖霊降臨後第17主日礼拝説教 マタイ福音書20章1-16節

聖霊降臨後第17主日礼拝説教 マタイ福音書20章1-16節
 立派であることは、決して悪いことではない。よく主に仕え、主のために努力することは決して悪いことではない。また、巷で言われる酒、たばこ、博打、淫らなことに溺れないこともまた決して悪いことではない。このようなことをよく出来る人も世には少なからず存在するし、それはそれで評価されるべきものである。
 たとえば、教会役員に、礼拝出席の怠慢な者、献金を怠る者が選ばれるだろうか。私の知る限り、そうした人が教会役員に選ばれる事は無い。ほとんどの場合、礼拝出席に熱心で、奉仕にも熱心で、献金にも熱心な者が教会役員に選ばれる。この状態もまた決して悪いことではない。礼拝出席に怠慢であれば、教会の実情も知りえないし、献金を怠るようでは信徒としてのあり方が問われるだろうし、奉仕に熱心であればやはり教会の働きそのものに触れることになるから、教会の運営を担う教会役員には、そうした人が選ばれてしかるべきであろう。
 その反対の教会員たちもいる。礼拝出席はあまりせず、献金も未納にし、奉仕なんてまるでしない。これが、いいことか悪いことかなのかは、実のところ私たち主の恵みの中に生きる者にとっては評価のできないものなのである。もちろん、常識的に考えて、そういう教会員はおよそ信仰者ではないと評価されがちではある。
 今日の聖書個所で問題になっているのは、評価の問題ではないということである。これを、今日の聖書個所と混ぜてしまうと混乱が生じてしまう。その点を確認してから聖書個所に臨みたい。
 今日の個所は新共同訳聖書においては「ぶどう園の労働者のたとえ」と題されているが、この物語はマタイ書にしか見られない伝承である。ただ「後にいるものが先になり、先にいる者が後になる」はルカ書にもみられる伝承で、この部分だけは、聖書神学において浮遊伝承と呼ばれている。福音書記者がこの伝承を自分の描こうとする伝承にむすびつけたり、書き起こしたりして用いるのである。
 このたとえで最初に「雇」われた人は明け方から働いている。そして最後に雇われた人は「五時」にぶどう園に向かった、極端な差である。この個所の解釈によく用いられるのが異邦人伝道である。まず先にユダヤ人が救われ、その後に異邦人が救われるというユダヤ人ありきのキリスト教会に対する問題提議としての福音書記者の主張として取り上げられる。しかし、今日、この聖書個所に向かい合っている日本のキリスト教会にとっては、そのようなモチーフはまるであてはまらないし、意味がないといってもいいだろう。ユダヤ人優位の宗教感を是正するためのモチーフはせいぜい紀元2世紀くらいまでの問題でそれ以降であれば、異邦人キリスト教会が主流になり、逆にユダヤ人はマイノリティーにすらなってしまうものである。
 この、たとえが史実のイエス・キリストに遡るかどうかは、議論のあるところであるが、このたとえの持つ主の恵みの価値観については、まさに史実のイエス・キリストに遡るものであるということはできるだろう。それは、当時のファリサイ派の宗教感と完全に対決するものであるからである。じつは、このぶどう園のたとえはファリサイ派のラビの文献にもある。また、その内容もちょっと似ている。簡単に言うと、同じようにぶどう園の主人が労働者を雇いに行く、するとよく働く人がいたので感心した主人がその労働者を連れて散歩に出る。つまりこの労働者はちょっとしか働かなかった。そして、支払いの時になって一日中働いた者もこの散歩に出ていた労働者も同じように一日分の賃金をもらった、そこで一日中働いた者たちが、散歩にでかけた労働者は二時間しか働いていないのに、これは不正ではないかと抗議する。するとこの主人は「この男は二時間でお前たちが一日中働くよりももっと働いたのだ」と言う。そして「そのようにラビ・ブン・バル・ヒアは律法の研究において有能な学者が百年かかってもできないことを二十八年でやった」としめくくられているものである。
 マタイがこのラビの文献を知っていたかどうかはわからないが、知っていなかったとしたら相当に偶然に対立的なたとえの伝承を用いたことになる。少ししか働かなかったものが一日中働いた者と同じ賃金をもらうという点に関してのみ、両者は共通しているが、対立しているのは、ファリサイ派のラビ文献では、一日中働いたものよりよく働いたから同じ賃金であるという点であり、この違いは今日の聖書個所を理解するのにとても役に立つ。マタイ書では明け方から六時まで働いた者が、夕方五時を過ぎてから六時までしか働かなかった者と同じ賃金である理由は、主人の恵みの意思にある。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」という一節である。
 つまり、どれだけ頑張ったかとか、どれだけ立派だったかとか、あるいはどれだけ怠惰であったとか、どれだけ不埒だったとかについては一切関係なく主の恵みは与えられるというキリスト教ならではの主イエス・キリストの恵みの真髄が語られているのである。
 これは、そういう意味で現在のキリスト教会、特に、組織化したり保守化したりしているキリスト教会、またその共同体に対する挑戦的な教えであるとすらいえるだろう。最初に述べたよにう評価されるべきものは評価されてよいが、それが主イエス・キリストの恵みの授与には一切関係しないという主の真理である。
 主イエス・キリストの恵みを知れば知るほど、それは教会出席にも熱心になるし、献金についても大変な成果をみせるし、奉仕についてもそれを惜しむことは無くなるだろう。それは、それで祝福の対象になっていることは間違いないものである。しかし、およそ、キリスト教徒とは思えないような不埒者であっても、主イエス・キリストの恵みは、熱心なキリスト教徒と同じように、また同じだけの恵みを与えて下さるということである。
 実によく、史実のイエス・キリストとファリサイ派の信仰の対立構造が浮き彫りにされている。決して、不埒で怠惰で怠慢であってもいいという話しではないけれども、現実の問題としして、主イエス・キリストの恵みは、主イエス・キリストの方から一方的にもたらされるものであって、私たちの生活ぶり、あるいは教会への関わりぶりによって変わるものではないということである。時に神学で「安価な恵み」と言われる救いだが、「安価」どころか、いただけるという意味ではとても「高価な恵み」とすらいえるであろう。
by qpqp1999 | 2011-10-09 13:15 | キリスト教