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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

聖霊降臨後第6主日礼拝説教 マタイ福音書11章25-30節

聖霊降臨後第6主日礼拝説教 マタイ福音書11章25-30節
 福音書記者マタイは「悔い改めない町を叱る」という20節から24節の次に「その時」として、今日の個所を配置している。そこで「その時」がどういう時かについてまず学びたい。おどろくべきことに、この20~24節は「叱る」というような生易しいものではない。ほとんど呪いの言葉である。「お前は不幸だ」「裁きの日」「陰府にまで落とされるのだ」「ソドムの方が、お前より軽い罰で済む」等、これが救い主の言とするならば、非常に恐ろしいものである。救い主に断罪され、徹底的な滅びを宣言されているのである。その反面、これは救い主としてのイエス・キリストが人々に受け入れられなかったという出来事でもある。「数々の奇跡の行われた町々」がその「奇跡」の恩恵を受けているのに、イエス・キリストを拒否したのだ。
 私たちにとって奇跡はあるだろうか、私たちは奇跡を体験したことがあるだろうか。人によって、それが奇跡であるかどうかは価値観によって左右されるため、私たちについての奇跡はその人、一人ひとりにおける信仰の問題になる。「悔い改めない町」は「コラジン」「ベトサイダ」「カファルナウム」とイエス・キリストがその活動をしてきた、町々であるから、イエス・キリストの多くの働き、奇跡が拒否され、それに対して呪いともとれる言が与えられるのであった。
 私自身のことを考えてみても、はたして「悔い改め」ているかというと、実のところ自信が全くといっていいほど無い。カトリック教会の聖書神学者であられる本田神父によれば、「悔い改め」とは「自分を低くすること」として解釈しておられ、非常に感銘を受けた覚えがあるが、そうであっても自分を低くすらしていないのが、淡々と自分自身を見つめる中で見えてくるものである。
 礼拝の式文においても、まず最初に罪の告白がメインになって祈られる構造を持っていて、その罪こそ、まさしく悔い改めていない状態であることを、毎週のように思い知らされるものでもある。尤も式文においては、その結末は呪いではなく、罪の赦しになるのではあるが、私たちに必要なものとしてマタイはこのイエスの呪いの言葉を躊躇なく書き記しているのではないだろうか。本来ならばイエス・キリストに呪われても仕方のない者であるということを、私たち自身が見つめなおすこと、それほどまでに「悔い改め」からはほど遠いところに私たちは存在しているという緊張感、危機感の重要性をマタイは迫っているように感じる。
 そして、そのような呪いの言葉とうって変わって、恵みの言葉が「そのとき」という言葉で繋がれながら発されてくるところに、マタイ福音書の巧みな構成を読み取ることができるだろう。25節から27節まではルカ福音書に並行記事が認められる。構成もかなり近いものになっているが、キリスト教徒ならよく知っているイエス・キリストの「軛」に関する聖書個所はマタイにしかみられないものであり、マタイが作りだしたものでもなく、マタイが独自に入手していた資料からの引用と考えられる。「トマス福音書」に似た記事が確認されていることからも、それは裏づけることができる。
 まず前半の部分を読んでみると、律法主義者たちに対する本当の律法主義者たるマタイの強い反発がかかげられていることがわかる。すなわち、イエス・キリストを拒否した律法主義者、ファリサイ派やユダヤ社会の保守層はまさに「知恵ある者や賢い者」にあてはめられて解釈されることは王道とすらいえる。「隠」された「これらのもの」とはマタイの主張する真なる律法、イエス・キリストの律法であることはマタイ書全体の主張しているところである。
 実際、マタイの教会はユダヤ社会からしてみれば決して「知恵ある者や賢い者」ではなかったであろうし、キリスト者はそのように見なされていたことは容易に想像がつく。そこでマタイはあえて「幼子のような者にお示しになりました」と挑戦的な記事を打ちだすのだった。ちょうど「悔い改めない町を叱る」った直後に「そのとき、イエスはこう言われた」とし「天地の主である父よあなたをほめたたえます」と言って、イエス・キリストを拒絶したユダヤ社会保守層に対しして挑戦的な展開を示すのである。
 まず、ここでシフトしなければならない、それは「悔い改め」ない自分というテーマから、イエス・キリストを拒絶するというテーマに以降することである。即ち、イエス・キリストを拒絶するということは「悔い改め」るべき自分を拒絶するということであるということ。そして、「悔い改め」ていない、この罪深い、私がイエス・キリストにあるならば、そこに救いが見出されるという恵み、そして、そういった新しいマタイならではの律法である。学問に秀でていることや、権力や、力そのものに秀でていることが正しさと結びついて考えられる時、そこにイエス・キリストに対する拒否が始まる。反対に力なき者、弱き者、力の無い者こそがイエス・キリストに結びつく鍵であることが強調される。人の社会の基本的な価値感の大転換がここに発生してくるのである。罪深きことを知るが故に、悔い改めから程遠いところにいるが故に、今度は改めて、知恵なき「幼子」としてイエス・キリストに結びつく恵みの道が与えられるのだ。まさにここに、「低くなる」という本田神父の神学の一端が見える。
 ここでマタイにしか見られない有名な個所が登場する「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。やすませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私を学びなさい、そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」という招きの言葉であり、そして「私の軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである」というマタイ福音書の骨頂が示される。ここに見られるのは明らかに、イエス・キリストを拒否している保守層へのアンチテーゼであり、強者に対しての弱者の拠り所としての、神秘なる奇跡であるイエス・キリストの「軛」なのである。
 「重荷」とはまさに厳格なる律法主義であり、押し付けられる強者に都合のよい世のあり方である。反対にイエス・キリストにあっては、そのような世の一切の「重荷」から解放され、イエス・キリストという恵みに満ち満ちた新たな「軛」が私たちに与えられ、本来重いはずの軛が恵みなる「軛」として私たちのあり方を新しくしてくださるのである。
by qpqp1999 | 2011-07-24 18:26 | キリスト教