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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

四旬節第3主日礼拝説教 ヨハネ福音書4章5節~26節

四旬節第3主日礼拝説教 ヨハネ福音書4章5節~26節
 「イエスとサマリアの女」と題されたこの個所。これは「ヤコブの井戸」をめぐって話しが展開していく。
場所はサマリアである。サマリアは北イスラエルの首都であったが、アッシリアの王サルゴン2世の攻撃で紀元前721年に陥落。住民は捕囚の民となり指導的地位にあった高位者は強制的に他の地に移民されられた。サマリアにはアッシリアからの移民が移り住んだ。このときイスラエル王国の故郷に残ったイスラエル人と移民との間に生まれた人々がサマリア人とよばれた。彼らはユダヤ人にイスラエルの血を穢した者といわれ迫害を受けていた。また捕囚から後、アッシリアの宗教とユダヤ教が混同し、ユダヤ教に対抗して特別な宗教を形成した。このためユダヤ人はサマリア人を正統信仰から外れた者とした。確かにサマリア人はヘレニズムの影響を受け、サマリア神殿にギリシャ神の像を持ち込んだりもしていた。また聖地エルサレムから締め出されたためゲリジム山に神殿を建てていた。したがって、サマリア教とすら呼ばれていたのである。
 とはいえサマリア人もイスラエルの末裔には違いはなく、特に今回のように「ヤコブの井戸」が存在していたのである。この「ヤコブの井戸」については創世記26章にヤコブの父イサクがその所有をめぐってペリシテ人と抗争していたことが記されている。ヤコブはイスラエルの元祖アブラハムの孫でアブラハムの一人息子イサクの子でありエサウという兄がいる。創世記ではヤコブは狡猾で弟でありながら兄エサウの祝福を奪い、ついには主と格闘してイスラエルという呼称を得た大人物である。そして、その血はサマリア人にも流れていたのである。そういった意味でも「ヤコブの井戸」を有しているということはサマリア人にとっては、元祖に遡るというアイデンティティーの一つでもあった。
 水に恵まれている日本と違って、中近東においては井戸はとても貴重であり、死活問題につながるものであった。通常、井戸は一つの町、村に一つくらいしか無く、風土的に水を得るというのは非情に困難なことであった。それだけに、この個所の「水」という救いの恵みのメッセージが際立ってくるのである。
 「ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあるシカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった、イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた」とあり、イエス・キリストの人としての疲労を如実に描写しているこの個所には引き寄せられるものがある。そして「正午ごろのことである」と続く。このサマリア、パレスチナの地においては正午ごろというのは、ものすごく暑く、たいていの場合外に出てくる時間ではないとしめす注解書もある。また、通常は井戸に水を汲みに行くのは朝であり、水がつきてしまって、どうしようもない状態でしか、「正午ごろ」に水を汲みに来るのはおかしな話である。しかし、「サマリアの女が水をくみに来た」とある。この部分を読むだけで、色々な事が推察される。後に明らかになるのだが、この「女」は「正午ごろ」にしか「水をくみに」来ることができない状態だったのだ。
 ここで、象徴的なのはイエスがこの「サマリア」の「女」に「水を飲ませてください」とお願いするところから、このエピソードが始まるところである。キリスト教、イエス・キリストの救いは、ふんぞり返った大神様が偉そうに聳え立っているのではなく、むしろ、力無き者として、更に弱き者に対して接近してくるところである。
 「『ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私にどうして水を飲ませてほしいと頼むのですか』と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。」という部分であるが。これは具体的にはサマリア人の使った器をユダヤ人は断じて使わないというほどに具体的な軽蔑と迫害であった。であるから、「サマリアの女」にしてみれば、どうしてイエス・キリストがユダヤ人と分かったのかは不明であるが、設定として「ユダヤ人」が「サマリア」人に「水を飲ませてほしい」と言うのは、時代状況からして相当にショッキングな話しであったのである。
 会話が進むにつれて「女」はイエス・キリストがただの人ではないことを認識していく。最初は「あなたは、わたしたちの父ヤコブより偉いのですか」と反論していくが、しかし、もうこの時点で福音書記者ヨハネは「主よ」という呼びかけを持ち出している。Κύριεキュリエはキュリオスであり、七十人訳の旧約聖書における神、「主」に用いるアドニーがこのキュリオスと同語となっている。
 「イエスは答えて言われた『この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る』」とヨハネ書独特の神秘的な言葉が発せられる。この言葉自体、非常に難解な部分である。簡単に、救いに至るというものではなく、なんと、イエス・キリストから与えられた水は、私たちの中で「泉となって」「わきでる」というのである。「女」が俗物的にその「水」を求めると、イエス・キリストは「女」に対して「あなたの夫をここに呼んできなさい」と追及される。そして、「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」とこの「女」の罪の側面を言い当てる。道理で「正午」に「水をくみに」行かざるを得なかったのである。この「女」はサマリアの中ですら軽蔑され、差別され、罪ある者とされていたのだ。そして大事なのはイエスがこれを言い当てたのは「女」を追求するためではなく、「ありのまま」と向き合う状態の大切さを示すためであった。
 このありのままである事を、主イエス・キリストに対して、自分の罪ある姿を恐れずに主にあかし、その中で「まことの礼拝をする者」となり、「霊と真理をもって父を礼拝する」ことに繋がっていくのである。「もしあなたが神の賜物を知っており」「その人はあなたに生きた水を与えるであろう」というところの「賜物」δωρεὰνドゥレアンは直訳すると「贈り物」である。私はこの私訳を大いに主張したいところである。ヨハネ書神学によく見られる「知る」ということ、これは信仰に直接につながり、イエス・キリストの永遠の命につながるものである。私たちは、時に非情な事態に陥り、全てが裏目に出て、希望の光を失ってしまう。しかし、そのような劣悪な状況の中にあっても、主イエス・キリストにおける「贈り物」を知っているならば、それは、私たちの命の中で「泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」のである。
by qpqp1999 | 2011-03-27 12:32 | キリスト教