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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

聖霊降臨後第14主日礼拝説教 ルカによる福音書7-14節

聖霊降臨後第14主日礼拝説教 ルカによる福音書7-14節
 ルカによる福音書にだけみられる特殊伝承である。また、文体が7節だけルカ調になっていて他はほとんど元の伝承を用いたと考えられている。
 新共同訳では「客と招待する者への教訓」というタイトルがつけられている。しかし、この個所でイエス・キリストが教えておられることは、実は現在の多くの日本人の場合、いまさら言われなくても当たり前の常識ではないかと思ってしまう。はたして、誰が好んで上座を選ぶだろうか、戦国大名なら話は別だが、現代の私たちはまさしくイエス・キリストが教えておられるように、進んで下座を選び、人によってはあえて上座に座ることを推測すらしてそうしないだろうか、またほとんどの場合下座にすわろうとし、上座に勧められても謙遜に断る人が多いのではないだろうか。
 海外では違うのだろうか、イエス・キリストがあえてこうお教えにならねばならないほど、起源0世紀のユダヤの人々は好んで上席に着こうとしていたのだろうか。少なくとも、現在では考えられない話である。
 では今日のこの個所は現代の私たちにとって全く無意味なのかどうかという議論に進まねばならないであろう。確かに、この11節までだけだと現代日本においては常識の問題になってしまう。しかし、よくよく読んでみると実は私たちの心に潜む姿がこの上席を好んで座ろうとする客であることがわかる。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」とある。
 新生ルーテル教会は介護保険法による通所介護、介護予防通所介護施設、デイサービスセンター新生ルーテルを立ち上げる、すでに内覧会を行っている。そこで、おどろいたのは実際に「高ぶる者」がいるということである。地域密着を意図して地域に挨拶に回ったところ、「高ぶる」人が少なからず存在したのだ。おそらく、その人たちは別の場面では末席を選び、体面を保ちながら上席につく術を心得ているのかもしれないが、場面によっては、「高ぶる」のである。
 そこで、このイエス・キリストの教えは現代の日本に住む私たちにもぴったりとあてはまるのだ。確かに、私たちはできるだけ下座をえらび、体面を保とうとするかもしれないが、では「高ぶって」いないかというと実はそうではないところがあるのではないだろうか。体面を保ちながら上座につくための巧妙な教えなのではなく、私たちたちの心根にある「高ぶ」りに対してのイエス・キリストからの教えなのではないだろうか。
 実はわたしたちは、ある局面においては実に「高ぶ」っていることを見直すべきであろう。特に身につまされるのがイエス・キリストが罪ある私たちを十字架につくまでして、自らを低くして救って下さったというキリスト教の根幹の部分を思いだすのがよいのではないだろうか。特に私たちは罪ある者に対しては非常に「高ぶ」った存在となるのである。その一番決定的な証拠は私たちは基本的に死刑を肯定しているという事実がある。尤も死刑を言い渡されるような犯罪を犯した人は、それはもうそれだけ悪いことをやっていて、死刑になるほうが難しいくらいなのが日本の法律なのだが。私たちはニュースなどで、死刑を言い渡されるようなことを行った人を罪びととして下げずむのではないだろうか。あるいは自分に敵対し、自分に対して悪意をもって攻撃してくる人に対してどれくらい、へりくだるだろうか。もちろん、毅然とした態度で対しなければならない事象というものはあり、また正されなければならない事象というものが多々存在する。ところが、この正されなければならないものが正されることがなく、泣き寝入りしなければならない人がいるというのもこれまた現代日本社会においても、私たちの生活の回りにおいても多々あるのである。ここにこそ「高ぶ」りがあり「へりくだる」がない状態が発生しているのである。
そこで、私たちは改めて、本当に「へりくだる」とはどういうことなのかを考えてみる必要がある。わかりやすく言うと、朝からお酒を呑んで酩酊状態でキリスト教の礼拝に参加する人にたいして、いったいどれくらいのキリスト教徒が「へりくだる」だろうか。また、教会、教団の行政的な側面において、明らかに「高ぶり」があるのにそれを正そうとしない、つまり「へりくだる」ことをしない人が多いのではないだろうか。「へりくだる」というのは、へこへこと自分を自虐的に低くするのではないのである。主イエス・キリストにあって人を愛するという信仰の状態をこの教えはさしているのである。
 「昼食や夕食の会を催すときには。友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない、その人たちも、あなたを招いてお返しをするかもしれないからである。」ここまでは納得もって読むことができるが「宴会を催すときには、むしろ貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人をまねきなさい、そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたがたは幸いだ」になってくると、もうこれは現代日本においては完全なる差別発言である。では、わたしたちが「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」を招いているかというと、決してそうではないと思われる。というのは、「貧しい人」と接して、その「貧しい人」に自分が取って代わってでもその人を「貧し」さから救おうという人がいるだろうか。「体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」に接する時に、私たちは「気の毒」だと思ってしまわないだろうか。また、その人に取って代わってでも、その人をその「気の毒」な状態を改善しようといったいどれだけの人がするだろうか。厳然として私たちは基本的に差別しているのだ。「高ぶ」っていて「へりくだ」っては決していないのである。
 確かに、宴会の時には、むしろ競って下座を争うかもしれないが、実は私たちの心根はあくまでも「高ぶ」っているのである。
 ゆえに、私たちはイエス・キリストに習うべきである。このイエス・キリストの教えは実際に「高ぶ」っている私たちに対しての挑戦であり、警告ですらある。そこで私たちは気づくべきである。自分は「高ぶ」っていると。そこに気づくことなしに本当の意味での下座につくことはあり得ない。そして、たとえ世間と闘うことになったとしても、低くされている人たち、マイノリティーとされている人々と共に生きるべきなのだ。それは、自らをも差別されることにつながるかもしれないが、それこそが「お返し」なのだこれはἀνταπόδομάアンタポドア「報われる」と訳されている、まったく同じ単語なのである。 
by qpqp1999 | 2010-08-29 21:29 | キリスト教