人気ブログランキング | 話題のタグを見る

牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

聖霊降臨後第八主日礼拝説教 ルカによる福音書10章25-37節

聖霊降臨後第八主日礼拝説教 ルカによる福音書10章25-37節
 良いサマリア人と題される箇所。よくしられる、隣人愛のたとえ話である。普通にそのまま読んだだけで、誰でもその意味するところが理解できるであろう。
 そこで、あえてこの教えの深い部分に読み入ってみたい。
 冒頭の主題は「永遠の命」である。「律法の専門家」が「イエスを試そうとして言った」とある。史実のイエス・キリストはナザレ出身の大工の子である。「ナザレ者」と揶揄されるほどの田舎者なのだ。しかし、よくよく歴史を見てみてると大工の子だからといって、決して勉学から遠いところにはいなかった。学ぼうと思えば学べたし、シナゴーグの役目は教育でもあった。律法学者や「律法の専門家」はそれぞれの自身の経緯でそうなったのであるから、イエス・キリストがそれなりの教えをしていることには一目おいたであろうし、だからこそ「試」したのだ。イエス・キリストが十字架で処刑されてしまうのは、主にユダヤの権力層を批判したからだし、また、自身を「神」と称したことに大きな原因がある。単に、聖書の教えだけをしていれば、それは「ナザレ者」でありながらも、立派な律法の専門家として終わっていただろう。
 「心をつくし、精神をつくし」というのは申命記6章に由来する。マルコ書では第一の掟は何かというものであったのに対して、ルカは[命が得られる]ということに変更されている。「心をつくし、精神をつくし」の申命記の引用は[イスラエルよわれらの神、主は唯一の主である]という現代でもユダヤ教において毎朝唱えられる信仰告白である。これほど有名な箇所であるのに原形が「心をつくし、精神をつくし、力をつくし」と人の三つの部分になっているのに対してマルコでもルカでもそれに「思いをつくして」を追加している。読んでみるとどれも、同じような意味に読めるのだが、それぞれに意味がある。「心をつくし」「思いをつくし」は人間の心のよい部分だけではなく、悪い傾向も含めて神をあいせよという意味があると註解書にあった。また「精神をつくして」は命をとりあげられてもという意味があるという。そして「力を尽くして」は具体的に財力をつくしてということであるらしい。なるほど、いかにも良いサマリア人は財力も尽くしているわけである。
 「隣人を自分のように愛しなさい」はレビ記からの引用である。この隣人愛が申命記と結合したのかはさだかではない。死海文書によれば、実はユダヤ教はかなり早い時期からヘレニズム文化の影響を受けていて、敬神と隣人愛はヘレニズム文化の一倫理であった。それがユダヤ教にも影響したのであろう。しかし、「隣人」πλησίονプレーシオン「近くの
」は誰を指すのかは、ひじょうにあいまいであったし、議論の分かれるところであったらしい、そこでこの「律法の専門家」がイエス・キリストに挑戦するのである。「隣人」直訳でπλησίονプレーシオン「近くの」は確かに誰をさすのかわからない。しかし、福音書読者はすでに良いサマリア人の顛末を知っているから、いささかこの質問が愚かしくも感じるかもしれない、しかし、よく読み進めてみると意外に私たちの生活や社会の在り方にチャレンジしてくるイエス・キリストの教えであることがわかってくる。「では私の隣人とはだれですか」という問いに対して良いサマリア人のたとえが展開される。ある人この人が何人なのかは全く記されていない。が、「おいはぎ」に襲われて半死半生の状態で放置される。ここに二人の聖職者が登場するこの人たちは人々のお手本となるべき人であるが、そこに死にかけている人をみると、面倒なのか、理由はわからないが助けようともせずに「道の向こうを通っていった」となっている。現代日本人の感覚からすると到底受け入れられない行動である。イエス・キリストに教えてもわわなくても、道に半死半生の人が放置されていたら現代日本人なら普通助けるだろうから、このおしえはその点でもはや常識の範疇に入ってしまっているので誤解が起きてしまう。
 「ところが旅をしていたあるサマリア人は」「憐れに思い」「介抱」したのだった。イエス・キリスト独特の挑戦的なたとえである。サマリア人とは紀元前721年に北ユダヤがアッシリアに滅ぼされ、アッシリアからの移民と混血の民となった人々である。このことはユダヤ人には受け入れられないものであった。しかもサマリア人は捕囚後にユダヤが復活しても当然受け入れてもらえなかったし、アッシリアの宗教とユダヤ教の合体した宗教を信じていたし、ヘレニズム時代にはギリシャ神を取り入れる等、ユダヤ人からみれば絶対に受け入れられない民であった。しかし、このサマリア人がユダヤ教の先生たる祭司とレビ人に勝って「隣人」になったのである。葡萄酒で消毒しオリーブ油で保護するのは当時の臨時救護であった。宿で「デナリオン銀貨二枚」を渡すがこれは労働者の二日分の給与くらいの金額である。
 さて、ここからが聖書の示すところを知るべきところである。ようするに敵味方関係なく愛せよというところで落着してしまうのが常である。確かにそうであるが、実際に真剣にここに取り組むならば、意外にこれは深刻である。
 たとえば私たちは死刑になるような犯罪者を「隣人」として愛せるだろうか?もし愛しているのなら死刑制度に反対すべきことになる。また、私たちはあらゆるマイノリティーを愛せるだろうか?同性愛者や性同一性障碍の人を愛せるだろうか?私はこの数年で5組ほどの同性結婚式をし、民主党のおつじかなこさんの挙式もしてこれはニュースにもなった。だが、そういう人たちを嫌う人は少なくない。むしろ嫌う人のほうが多いのではないだろうか。それが受け入れられないようなら、それはまさにこの、たとえ話に出てくる偽善者たる祭司とレビ人であって、決して良いサマリア人たりえないのである。
 保守的なキリスト教こそまさに今日の聖書箇所を真剣に読み、取り組むべきであろう。まさにサマリア人というのはマイノリティーであったし、やっていることもマイノリティーであった。しかしこの人こそ見本的な「隣人愛」を示したのだ。現代の教会に集う保守的な人々こそまさに今日の「律法の専門家」である。イエス・キリストにそのマイノリティーな人々を「あなたも同じようにしなさい」と命令されたのだ。このしなさいは
Ποιήσαςポイエーサスで直訳すると「作る」という意味である。そうなのだ、まさに私たちは主イエス・キリストにあって、差別や偏見、保守的感情による人権侵害の無い世界を作らなければならないのだ。それこそが、「永遠の命を受け継ぐ」ことであり、イエス・キリストを救い主と告白することになるのだ
by qpqp1999 | 2010-07-18 12:55 | キリスト教