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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

聖霊降臨後第四主日礼拝説教 ルカ福音書7章11-17節

聖霊降臨後第四主日礼拝説教 ルカ福音書7章11-17節
 ナインという町での主イエス・キリストの死者を生き返らせる奇跡はルカ福音書のみにみられる伝承である。更に、この物語の核となる13ー15節は明らかにルカの文体とは違っており、その他の部分が特にルカ調なので、ルカはこの伝承を非常に大切にしたといえる。
 死者の復活、復活というよりも、生き返ったという方が生々しい。この出来事が史実にさかのぼるかどうかと問われるならば、実は私は本当にあったのではないかと思う。と言うとあまりに熱狂的と思われるかもしれないが、四つの福音書で死者を生き返らせた物語はかならずある。しかも、今回のように並行記事を持たないものも少なくない。ということは、少なくとも、噂の次元まで落としてしまうと、ナザレのイエスが死者を生き返らせたという評判は確実にあったはずである。まさに火のない所に煙はたたないのと同じで、ナザレのイエスが死んだ人を生き返らせたという評判はあったのは間違いなく史実である。
しかし、いつも私がこの死者の生き返るという奇跡物語を読むとき、それでもこの生き返った人はやがてもう一度死んでしまうということを気にしてしまう。また、現代において完全に死んでしまっている人はどんなに電気ショックを与えようと、心臓マッサージをしようと生き返ることはあり得ない。もちろん、どんなに祈っても私たちは死ということに関しては全く無力である。聖書をいくら読んでも、祈ってもやはり人の死はもはやどうすることもできないものである。
 もちろん、この福音書を書いているルカにしても、そういう認識は当然持っていたであろう。使徒言行録でも死者を生き返らせる物語をルカは書いているが、ルカにとって重要なのは生き返るという奇跡を記すことで、わたしたちの信仰にそれがなにをもたらすか、恵みとなるかを語りかけているのではなかろうか。
 実はこの箇所の伝承は旧約の預言者エリヤの列王記に記されている奇跡と似ている。「やもめ」の「一人息子」の死とその生き返らせる奇跡である。しかも、今日の箇所ではイエス・キリストは「大預言者」と人々から言われている。それを踏まえれば、この物語は列王記の奇跡を意識して書かれているであろう。
 ただ、反対に私訳をしてみると意外な点があげられる。それは「イエスが」とか「イエスは」とか書かれている部分11節~17節の間でギリシャ語の「イエス」にあたる「Ἰησοῦςイェスース」という名詞は一言も出てこないことである。尤も他の箇所でも「イエス」と訳されているもので、それが代名詞の「イエスを」だったら「αὐτὸνアウトーン」というように記されているのでそうめずらしいことではないのだが、それだけにルカはこの奇跡物語を一つの起点にしていると思われる部分がある。
 それは「主は」という言葉でイエス・キリストを際立たせて書いていることである。それ以外は全部代名詞なのにここに限って「主」「κύριοςキュリオス」と主格に特別な称号を与えているのだ。人々の反応は「大預言者が我々の間に現れた」となっているが、ルカはここで「主はこの母親を見て憐れに思い」と改めてイエス・キリストを主なる神として認識し、また、それを訴えているのである。
「主」という表現はキリスト教においてとても大切な認識である。私自身の感覚でいうと神という認識と主という認識は異なるものではないかと思う。特に神という単語は八百万の神の一つになってしまうので、あまり適切なものではないと思ってしまうので、私は「主」という言葉を大事にしたいと思う。
 この「主」が「憐れに思い『もう泣かなくてもよい』と言われるのである。実はこの部分こそが、この伝承で大切にされるべきであろう。私たちにとって悲しみの涙はさまざまな状況で起きるものである。そして、大抵の場合その悲しみはどうしようもない状況の中で発生する。私たちは涙を伴う悲しみには非常に無力である。今日の箇所で「一人息子が死んで」という状況は「やもめ」にとっては全くどうしようもない悲しみである。ルカは私たちの限界、無力さの象徴としてここに「死」という状況を設定している。
 私たち人の力ではどうしようもない悲しみ、苦しみに対して「主」は「憐れに思」ってくださるのである。そして、その悲しみを「主」の力によって挽回してくださるという主張であろう。私たちは涙の中で、それがまさに「死」のようにどうしようもない状態の時に「主」が「憐れ」んでくださっていることを信じ、その中に希望を持つことができるのである。
 「主」は「近づいて棺に手を触れられた」これは過去に起こったことではない私たちの生活にも起こることなのだ。あらがうことのできない問題に悩まされ、私たちは涙する、すると主は「近づいて」下さるのだ。「主」は言われると私訳をしたいくらいの言葉がついに発せられる「若者よ、あなたに言う、起きなさい」と。まるで寝ている人を起こすかのような表現だがまさしくそのとおりで「起きなさい」「ἐγέρθητιエゲレーセティ」は「目覚める」という意味でもある。これこそ今日、私たちに与えられる主の恵みではないだろうか。私たちに主はめざめなさいと言って下さっているのである。そして、わたしたちはその言葉の故に目覚めることができるのである。そう信じることが目覚めの時なのである。私たちは、あらゆる局面において主にあって目覚めることができるのだ。[死]すらも克服してしまう主が今も私たちに信仰の目覚めを与えて下るのだ。
 そして、「イエスは息子をその母親にお返しになった」とある。私たちが、どこかでうしなったものを、信仰の目覚めとともにそれは回復されることが強調されている。私たちはいつも、どこかで何かを失ってしまう。そして、もうそれは二度と回復できないかのような凄まじさをもって私たちを席巻する。私たちには、それを打ち砕くための力が必要である。それは、まさに主から与えられる。「お返しになった」」ἔδωκενエドゥケン」は「与える」という意味でもある。確かに、主によって与えられねば、私たちは涙の前にあらがうすべがない。
 ルカ書にしかないこの「やもめの息子を生き返らせる」エピソードは、悲嘆にくれる私たちに希望を与えてくれる。私たちは問題をかかえていても、主によってであれば、そこから目覚めることができるのだ、そして失っていたもの、忘れてしまっていもの、必要なものらを主は与えてくださるのである。
by qpqp1999 | 2010-06-20 12:55 | キリスト教