人気ブログランキング | 話題のタグを見る

牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

復活後第四主日礼拝説教 ヨハネ福音書13章31-35節

復活後第四主日礼拝説教 ヨハネ福音書13章31-35節
 数年前に話題を呼んだダヴィンチコードという小説がある。イエス・キリストは実は結婚しており、その子孫がいるという、おそらくキリスト教文化圏ではショッキングな小説である。しかし、日本においては、多くのキリスト教徒でない人々がキリスト教の宗教性や神秘性に刺激を受けかえってキリスト教に対する関心を高めたものである。
 尤もこの小説も全く根拠のないことをいっているのでもなく確かに2世紀頃に書かれたエジプトのコプト語のマグダラのマリアの福音書というものがあって、ここでは完全にマグダラのマリアはイエスの妻であったと書いてあるらしいので、まだ教義、信条が整っていなかった2世紀の書物であればそういう見方をしていたグループもあったのであろう。しかし、なにしろエジプトのもので2世紀以降に書かれたものであるから、その信憑性は極めて低く、もしそのような書物に史実性があるとなると、新約聖書という経典である四つの福音書はまさに史実そのものであると言えるくらいであるので、これは一つの作り話であろう。実際にイエスの弟子には女性がおり、今日の第四福音書ではイエス・キリストの墓に最初に赴いたのはマグダラのマリアだけであったし、最初に復活のイエス・キリストに会うのもマグダラのマリアだったから、この女性は女性の弟子の中でも特に注目されていたのは事実である。
 このような話を冒頭にしたのは、そのキリスト教のリアルな信憑性と神秘性はやはり、今もなお私たちの信仰生活に生き生きとしたものであるべきと考えるからである。第四福音書は確かに共観福音書と比べると確かに神秘的であり、ある時期の神学者たちはこの福音書は異端たるグノーシスであると言っていた。ブルトマンという神学者はグノーシスのキリスト教化と説いたし、ケーゼマンはキリスト教のグノーシス化と説いているほどである。グノーシスとはと、いうと、まずは二元論であるということにある。そして、この二元論すなわち、あちらと、こちらを真っ二つに分け、その基、源泉も分離された二つの世界という観念と理解することができるだろう。そして、そのことが強く現れているのが今日の「新しい掟」というみだしに見られる聖書箇所なのだ。
 これのどこが二元論的かということは、後に述べるとして、この箇所が復活節の第四の主日に選ばれている意味を考えてみたい。この箇所は受難の前夜、まさにユダに悪魔が入りイエス・キリストの「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」とユダに言いついに受難が決定的になった場面での物語である。復活節に受難のまさに先端の箇所が何故にえらばれているかと問われるならば、まさにイエス・キリストの復活は、ヨハネ書では受難というよりは栄光の十字架と復活とセットになってはじめて成り立つ神学が根底にあるからである。
 共観福音書においては「人の子」の栄光は再臨と関連付けられているが、ヨハネ福音書では十字架と復活が「人の子」の「栄光」なのである。であるから、この受難の始まりは栄光の始まりということである。であるからユダがついにサタンの仕業をはじめたこの時点で主の勝利たる十字架と復活が歴史に起こり「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」と弟子たちとの決別の説教がここに語りだされるのである。弟子たちとの決別の説教の冒頭にはやはり栄光の十字架と復活が配置されていることにはこの福音書の精密な構成を思いいるばかりである。私が神学生だったころヨハネ福音書研究が専門の間垣先生がつよく教えておられたのは、ヨハネ福音書のイエス・キリストは十字架で悲鳴をあげるようなものでない、ということであった。あくまでも、この十字架による栄光が強調されるべきであるとされた。私もその点についてはまったくそうであると思う、ただし、贖いの十字架という信仰がないのかといえば、決してそうではなく、あくまでそれを大前提にしての栄光の十字架というのが妥当なのではないだろうか。
 ヨハネ福音書は愛の福音書とも呼ばれるほどアガペー「愛」を強調する福音書である。しかしこのアガペーなる愛とは何ぞやと問われると具体的にどういう状態を指すのか的確に語るにはヨハネ書をよく研究する必要がある。というのは、いわゆる道徳的な愛ではないし、相手を思いやるとかそういう類のものではないということである。では、この愛とは「新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい、わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」なのである。これはまさにグノーシスのキリスト教化、キリスト教のグノーシス化といわれてしまうような顕著な二元論なのである。この「互いに愛しあいなさい」はヨハネの教会の結束とユダヤ教からの離脱を特に意味している。世とキリスト教共同体は一つではなく、別な次元のものであることが強く記されているのである。つまり、「愛」はヨハネ書においてはキリスト教共同体という現実が示している神秘的な復活のイエスの栄光なのである。であるから「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを皆が知るようになる」のである。
 復活節に私たちはイエス・キリストの栄光の復活の神秘を、キリスト教徒の共同体のあり方をして世に発現させられる奇跡を思い返さねばならないのである。キリスト教共同体での「互いに愛し合いなさい」とかいうと、教会という集団の中で信徒同士が仲良くしましょうといっているように聞こえてしまうがそういうことは意味していない。もちろん信徒同士が仲良くするのはいいことだが、第四福音書が提示し求められている「互いに愛しあいなさい」はキリスト教共同体を活ける栄光のイエスの復活の現場にするべきであるということである。この点については、多くの、あるいは全ての現在の教会、キリスト教共同体が改めて向かい合わなければならない側面ではないだろうか。この点において欠如しているが故に、私たちはどこかで復活のイエスキリストの栄光を汚してはいないだろうか。おそらくは汚しているのである。であるならば、今日の聖書箇所は現代のキリスト教共同体を形成している私たちにとって大切な恵みの箇所となろう。
 紀元3世紀に公認宗教となり以降は、巨大な組織になり、また腐敗し、改革があり、また改めたり、研究を深めたりして結局実際今のキリスト教共同体はどこの教派、教団でも漫然な状態が横行しているのが事実であろう。それがゆえに私たちは復活されたイエス・キリストからの「掟」をないがしろにしてはいないだろうか。私たちはこの「掟」によって主に活かされ、復活のイエス・キリストの神秘を与えられるべきなのである。
by qpqp1999 | 2010-05-02 21:10 | キリスト教