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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

待降節第三主日礼拝説教 ルカ福音書1章26-38節

待降節第三主日礼拝説教 ルカ福音書1章26-38節
 福音書の中でも最もドラマティックなエピソードの一つといえる乙女マリアの受胎告知。これはルカによる福音書にしか記されていないのは意外に知られていない。特殊伝承の一つである。キリスト教文化圏においては乙女マリアの受胎は当然のこととして認識されているかもしれないが、日本においてはまずこの物語で多くの人はキリスト教の不自然さを感じるであろう。キリスト教徒であっても、この乙女の受胎に関しては、教義的なものとしてだけとらえ、史実であるものとはみなさない人もいる。
 マリア様というと、聖母マリアとしてほぼキリスト教における女神のように紀元4世紀頃から扱われだした。今も実情は同じな国もある。ギリシャ正教のイコンではやはり聖母子が多くみられる。カトリックの総本山たるサンピエトロ寺院にはイエスより二倍くらい大きいマリアがその息子の遺体を抱いているピエタ像、ミケランジェロの最高傑作である。
 だが、史実のマリアについてはあまりにも資料が少なく、それを知ることは今のところ不可能である。しかし、キリスト教史の視点からすると最初はマリアはキリスト教というかユダヤ今日のナザレ派のエルサレム教団の高い地位にいたと推測する神学者や歴史学者もいる。なにしろイエス・キリストの母親であるから。数年前に大ヒットした「ダヴィンチコード」ではイエス・キリストの妻であったとしてマグダラのマリアをとりあつかい話題をよんだ。おなじマリア同士だが、この二人はおそらくはエルサレム教団で力ある存在であった可能性がある。だが、現在のキリスト教はギリシャ語を使う異邦人キリスト教会の増加と発展によって形成されたものである。エルサレム教団の消滅は期限70年のタイタス率いるローマ軍によっておこなわれたエルサレム陥落と同時であったという歴史観はおおむね、多くの学者の意見の一致するところであろう。
 その70年以降はマリアたちの地位、存在そのものが消滅したのか、聖書のどこをさがしてもおよそ聖母になりうる根拠になる記事はみあたらない。マグダラのマリアがイエスの妻でなかったのと同じ程度にイエスの母マリアも聖母ではないというのが表向きはどうあれ、プロテスタント教会、あるいは近年のローマカトリック教会、ギリシャ正教会の一致する信条であろう。
 それにしても、やはりドラマティックで魅力的なエピソードであることはまちがいない。福音書に登場する二人の天使のうちの一人ガブリエルはこの箇所で登場する。天使神話は色々と発展しているが、ガブリエルは智天使で複数の羽を持つらしい。また、智天使の中で唯一の女性の姿をしているという。しかし、そんなことをルカが意識していたとは思えない。後代のつけたしである。それにしてもわざわざ天使に名前をつけるのは福音書としては稀なことである。このように天使の話の段階ですでに架空のファンタジー物語になってしまう。ましてや乙女の受胎という現象を史実のものとして言い張るのは大人げないほどになってしまう。実際、4つの福音書の中で乙女の受胎を記しているのはルカとマタイだけで、それぞれ独自の特殊伝承を用いている。しかも、乙女の受胎が問題なのではなく別の福音主張がそこに書き込まれていることは把握しておくべきであろう。
 シビアな見方をするなら、紀元1世紀くらいまでは偉い人は多くが乙女から生まれた。ローマ帝国のカエサルしかり、プラトンしかり、日本ではもっと後代になるが聖徳太子しかりであり処女降誕はそんなにめずらしいものではないことも知識として知っておきたい。そうであればイエス・キリストこそ処女降誕しなければ逆に不自然なほどである。
 ではルカはそのような神格化のためにこの乙女の受胎告知を書いたのかといえばそうではない。ルカはダビデ家の血統ではないところからのイエス・キリストの誕生を主張しているとする注解書がある。確かにここでマリア単体から産まれてしまったらダビデ家の血統ではなくなってしまう。史実としてイエス・キリストはマリアというダビデ家の血統ではない流れから産まれたのだろう。だからマタイ書ではルカとは反対に父親としてのダビデ家の血統たるヨセフを父として主張している。たとえダビデ家の血統でなくとも「父ダビデの王座をくださる」「永遠にヤコブの家を治め」ることが。ここにこの物語の主張点があるだろう。
また、史実としてイエス・キリストが私生児であったという可能性を逆にルカもマタイも示してしまっているといえるだろう。それだけに今日の箇所は重要である。不思議なことにルカ書では父ヨセフはひたすらに寡黙である。この点はこの箇所でも関連がある。ヨセフと婚約関係にあったならば、それはユダヤ教において実際は夫婦である。婚約式が結婚式と同等の意味をもち、その後1年は子供をつくることをしてはならないという律法があった。そうなると事態は深刻で、それは実質姦淫罪となり石で打ち殺される運命になるのである。
「おめでとう恵まれた方、主があなた共におられる」から派生した言葉ラテン語のアベマリアは祝福の言葉であり「よかったねマリア」というような意味である。しかし、その事態はちっともよくはない。死を覚悟しなければならない事態である。「恐れることはない」はギリシャ語でホヴゥー、その前に否定のメーがあるから「思いとどまってはならない」とか「気力を失ってはならない」という意味がある。単に「恐れることはない」という訳よりはより積極的な言葉である。
乙女マリアの受胎告知は単なるファンタジー物語でなければ、作り話でもない。「神にできないことは何一つない」という確信に立って、絶対に不可能な逆境にあっても、その逆境こそが主が私たちのために計画した祝福であるというルカ特有の苦しみの中にこそある主の祝福という信仰、神学である。それは46節以降のマリアの賛歌の中に色濃く反映されている。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」これは、これから実際に史実としても大変な苦難に出会うマリアという人の信仰告白である。マリアはやがてかいばおけにその主を寝かせる。そして、そのわが子たる主は目の前で鞭に引き裂かれ、十字架に磔らけるのだ。それを目の当たりにしなければならなかった。尤もルカ書では「婦人たち」としか書かれていないが、史実としてその中にいた可能性はとても高い。そして実質エルサレム教団の女性としての中心人物となっていったのであろう。
by qpqp1999 | 2009-12-14 00:54 | キリスト教