人気ブログランキング | 話題のタグを見る

牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

聖霊降臨後第16主日礼拝説教マルコ福音書8章27-38節

聖霊降臨後第16主日礼拝説教マルコ福音書8章27-38節
 マルコ福音書の展開点である。これまで、主の権威ある奇跡によってイエス・キリストはガリラヤや異邦の地でも宣教してきた。「フィリポ カイサリア」という地点はこれまでのガリラヤからエルサレムに向かうまさにその地点である。いよいよ、イエス・キリストの使命が果たされる時が来たのだ。その際にイエス・キリストは弟子たちに尋ねる「人々は私のことを何者だと言っているか」。ここで、これまでの活動が人々にとって、以外に合点のいかないものだったことがはっきりしてしまう。弟子たちによれば、人々はイエス・キリストのことを殺された「洗礼者ヨハネ」、旧約聖書の大預言者「エリヤ」、あるいは「預言者の一人」と今までの活動は何だったのかという反応になってしまっている。この人々の間違った認識を色濃くマルコが描いているのは、福音書の展開点をよりいっそう強調するためである。というのも、意外にも弟子たちの代表のペトロは正解を出し、また大間違いをするからである。
 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と直弟子たちにいえす・キリストは問う。弟子を代表して筆頭弟子たるペトロが「あなたはメシアです」と大正解を答える。まさにキリストとギリシャ語で書かれている通り、イエスはメシア、救い主、救世主であるのだ。だが、この大正解に対してのイエス・キリストの反応は更に意外なものになる。「するとイエスは、ご自分のことを誰にも話さないように」と「戒められた」のである。正しい答えを弟子たちが持っているのにそれを「誰にも」話すなというのだ。一見これでは宣教の停止命令のようであるかのようだが、そうではない。この「戒められた」はギリシャ語でエペティメーセンで「命令する」というような意味である。マルコはこれをキーワードにして次なる展開に結びつけていくことになる。
 31節でついに最初の正式な受難予告をイエスは語る。「人の子」はマルコにおいてイエス・キリストに対する唯一の神的称号である。それははじめて聞く弟子たちにとっては相当にショッキングなものである。「メシア」キリスト、救世主がどうして主の道を指導する「長老」「祭司長」「律法学者から排斥されて殺される」というのだ。これではメシアとはまるで違うありさまである。本来なら「メシア」こそ「長老」「祭司長」「律法学者」に先ずもって受け入れられ、広められるはずではなかっただろうか。ところが、「メシア」たるイエス・キリストはこの受難、苦しみを経る道をたどることが「父の栄光」に輝くことであることを「しかも、そのことを、はっきりとお話しになった」のである。マルコはわざわざここまでして強調している。
 その途端に読者を含め人類は拒否反応を示すことになる。その代表がペトロなのである。たった今大正解を出したはずなのに、その信仰がまったく違ったものであることをマルコはこの反応で大いに演出する。なんとペトロは「メシア」たるイエス・キリストを「いさめ始めた」のだ。この「いさめる」はギリシャ語でエピティマンで「指示する」とか「「感情的」と直訳でき、しかも悪霊や嵐に対してイエス・キリストが命令したその言葉そのものであり、訳するならば「叱った」とか「命じた」となるのがよりよい訳ではなかろうか。ここには人類を代表してのペトロの主イエス・キリストへのまちがった優越性が描かれている。そして、これはなにも当時の話ではなく、私たち自身の問題としてマルコは主張しているのである。私たちはイエス・キリストをメシアとして正しく認識し、信じていると思い込んでいるが、実はそういった中に主イエス・キリストをないがしろにし、更には自分に優越性すら帯びてしまっていることに私たちはどれだけ気づけるだろうか。
 大正解を出したはずのペトロは「サタン、引き下がれ」と跳ね除けられる。「サタン」というと悪魔とかいう意味にとってしまうし、実際その要素があるが、ギリシャ語ではサタナーで「敵」と直訳される単語である。
 「ペトロを叱って」とあるがこの「叱って」こそ30節の「戒められた」と同じ言葉エペティメーセンであり「命令する」である。韻を踏むというか、マルコはここに関連付けをしているのだ。「メシア」だと告白した者は正しいはずだったが、それは見当違いな思い込みであったことであり、信仰とは違うことがここに明らかにされてくるのである。
 主イエス・キリストを正しく「メシア」と告白した者が、どうして主の「敵」となってしまったのか。この問題こそが、エルサレムの十字架へと向かう真のメシアへの信仰を取り扱うものとなり、この箇所の大切なところとなる。34節でいきなり「群集」を呼び寄せと、いきなり「群集」が降ってわくのだがこれは宣教的意味の深さを強調する。新共同訳では訳されていないが35-38節まで全ての教えの前にガル「すなわち」「なるほど」と訳される言葉が据えられていることはこれらのお教えがすなわちメシアとは、信仰とはという重要な問題を扱っていることを意味する。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」イエス・キリストが十字架を背負った事実があっただけにこの教えは挑戦的である。特にキリスト教の教会のマンネリ化した、表面だけの心地よい敬虔に酔いまどろるむ私たちに改めで「自分を捨て」よと命令されるのだ。「捨て」はアペルネーサースで「否定する」「拒絶する」である。意味するところは完全なる自己否定である。特に罪ある自分をキリストの故に自己肯定する方程式のあるキリスト教においてよく起こる間違いに対して、改めて受難予告の真意が示される。ここにあるのは「十字架を背負」うという完全な自己否定なのだ。自分を捨てるというと自分を犠牲にしてとか、なんとか清らかな方向にもっていかれそうだが、マルコはそうは言わない。自分を犠牲にして悲鳴をあげるのではなく、あえて自己否定することで自分の十字架を認識し受難の主イエス・キリストに従うのである。人というものは、自己否定することを徹底的に拒絶する。罪や偽善は実はそこから始まる。なにも卑屈になって自分を否定せよと言うのではない。自己保存の本能で人は命を守ろうとするのが自然であるのに対して、そうすることは「命を失う」ことにつながるという主イエス・キリストの説かれた真理が現れる。かえって「福音のために命を失う者はそれを救う」のである。つまり、これは自己否定でありながら自己実現なのだ。あえてイエス・キリストに従うという選択肢を生活の中で選び、自己否定して進む時、それは苦しみや悲しみや奉仕である時、自分の十字架を背負い自己実現するに達するのである。そこに用意されているのは真の救いなのである。
by qpqp1999 | 2009-09-20 15:14 | キリスト教