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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

復活後第二主日礼拝説教 ヨハネ福音書21章1節~14節

復活後第二主日礼拝説教 ヨハネ福音書21章1節~14節
 貴重なヨハネ書のテキストの日である。今日の箇所は解釈の余地もなく完全なる後足しの記述であり、本来のヨハネ書は明らかに20章で終わってることは20章30節以降で「本主の目的」としてエンディングになっている事を読めばすぐにわかる。しかし、マルコ書の後足しの部分とは異なり、この後足しの部分は完全に恣意的に後からつけたことを自覚して書かれており、またヨハネ書の特徴や主義を知っていて書かれていることからその重要性については様式史が発展し福音書の否神話化が盛んになってからも衰えることはなかった。
 まずもって、ヨハネ書の特徴である「イエスの愛しておられた」「弟子」についての言及があることに気が着く。そして、あくまでも弟子ヨハネという名は出てこないままになっていることもヨハネ書の特徴を尊重している。またペトロの弟子の地位についてもヨハネ書の特徴通りにきちんと位置付けられている。
 また、弟子たちの前に現れたのが「三度目」として、20章までの記述の流れを損なわないようにしていることも大事であろう。
 ヨハネ書にのみ現れる12弟子の中の一人「ナタナエル」が登場していることもあげられる
 イエス・キリストの復活後の顕現については全ての福音書において相互に食い違いを見せているが、その最も顕著な部分はイエス・キリストがエルサレムで顕れたのか、ガリラヤで顕れたのかということである。マルコ書ではイエスの顕現についての記載は無いが、「先にガリラヤに行かれる」とガリラヤでの顕現を主張している。伝承としてはイエス・キリストのエルサレム顕現とガリラヤ顕現と二つがある。どっちが正しいかという議論はあまり意味がない。二つの伝承があり、それぞれに成り立つという捕らえ方が妥当であろう。ヨハネ福音書のこの後足しの立場はエルサレムにおける顕現が20章で記されていることを前提としている。
 今回の顕現は「イエスはティベリウス湖畔で」「ご自身を現された」とある。ティベリウス湖というのはガリラヤ湖の別称であるから同じ湖である。なので、今回のイエス・キリストの顕現物語はガリラヤでのことになり、ヨハネ書の脈略からするとイエス・キリストはエルサレムでもガリラヤでも顕れたということになる。
 物語は漁師の大漁奇跡の物語の形をしている。これはルカ書5章に並行記事というよりは似た物語があるという認識が主流である。私個人的には平行記事としてもいいのではないかと思うほどに似通っているのだが、しかし確かに大漁というそれ以外は、その描写と出来事がかなり異なっているので平行記事としてとらえられないのであろう。それでも、大漁奇跡の伝承としては似た伝承であり、奇跡伝承のカテゴリーでいうなら同じカテゴリーになるはずであるし、その点を主張する神学者も少なくない。
 私個人的にはこの箇所はとても思いいれのある箇所である。ルカ書の大漁物語とちがい、ヨハネ書のほうはよりドラマチックである。ペトロたちがいつごろ漁に出たのかは記されていないからわからないが、「その夜は」と「夜が明けたころ」とあるから一晩中かかって漁をしたことになる。しかし「何もとれなかった」のだった。その「明け」方にイエス・キリストが「岸に」顕れたのだった。そして弟子たちに話し掛けるがこの時点で弟子たちは「それがイエスだとは分からなかった」のである。これも復活後の顕現物語の伝承の特色である。それゆえに福音書にある大漁物語はルカ書とヨハネ書だけであり、ルカ書の方がはるかに早く書かれているものの、伝承としてはヨハネ書の大漁物語の方が古く、大漁物語は元々はイエス・キリストの復活顕現伝承であったと指摘する神学者もいる。
 私がこの物語で特徴的なところとしてイエス・キリストが「舟の右側に網を打ちなさい、そうすればとれるはずだ」とおっしゃることがあげられると思う。またこの発言もとても象徴的である。一晩中かかってとれなかったのだから、右に網を打とうが、左に網を打とうが、あるいは後ろに打とうがもはや結果は同じであることは、人間の常識からすれば明らかである。ところが弟子たちはそれに応えて網を打ったすると「もはや網を引き上げることができな」いほど取れた、「153匹」という数はティベリウス湖に生息する魚の種類全てを指し、これはユダヤ民族だけに留まらぬあらゆる民族への宣教的視点であるという解釈は一般的である。また、ここでイエス・キリストは「パンを取って弟子たちに与えられた」とあるがここに聖餐を読み取ることは妥当であろう。そこで、私はどのようにこの箇所を惠みとしていただくだろうか。やはりそれは復活の主イエス・キリストの私たちに対する顕現であるという一言につきると思う。復活の主イエス・キリストは今日この聖書箇所を通して私達に顕れてくださったのだということを大きく打ち出したい。これは2000年前の話ではなく、今この箇所を読む私達に起っている奇跡なのである。そしてこの顕現は漁がうまくいかなかった人たちを驚愕させるほどの大漁という実現を伴って顕れるのだ。
 私が性同一性障碍の発現に苦しみ、大変な辛酸をなめた時、自殺を図ったことがある、幸いにして失敗に終わったがちょうどその時、テレビがつけっぱなしになっていて、そのテレビの中から主イエス・キリストが言った「舟の右側に網を打ちなさい」と。私は自殺に失敗して身動きとれない激痛の中にいたが、たまたま放送されていたイエス伝の映画の中でこの聖書箇所が語りかけ、そして今日もまた新たに語りかけてくれている。生ける復活の主イエス・キリストの言葉として。私達は時にうちひしがれ、望みを失う。病気にかかれば苦しいし、怪我を負えば痛む。だが、それらは決して不幸なことではない。もし病気や怪我に苦しむ人たちのことを不幸だというのなら、それはそこに苦しむ人への侮辱である。苦しいし、悲しいし、痛いかもしれない。だが、それは決して不幸なことではないのだ。主イエス・キリストの復活の惠みによって、新しく私達も生まれ変わる時、あらゆる世にいう「不幸」というものは「希望」というものに変化する。苦しいからこそ希望がある。悲しいからこそ未来がある。痛いからこそ立ち上がるのだ。それは我を張っているのではない。主イエス・キリストの復活によって全ての苦しみは変化させられるのだ。それを私は体験した。今、目の前にある恐怖や危機に私達は勇気をもって、「網を打」とうではないか。それが右になるだけで復活の主イエス・キリストの奇跡が顕現するのだ。
by qpqp1999 | 2009-04-30 10:47 | キリスト教