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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

復活祭礼拝説教 マルコ福音書16章1~8節

復活祭礼拝説教 マルコ福音書16章1~8節
 マルコ福音書のエンディングの部分では9節から最後までは後世の書き足しであることはもはや常識である。新共同訳ではわざわざ「結び」と題して区別している。この付け足された部分がいつ頃なのかは議論があるが遅いものだと2世紀という説もある。あらゆる註解書は8節までと9節からを区別している。
 尤も際だって異なっている点は「朝ごく早く」に行動を起したのは三人の婦人なのに対して、9節以後では「マグダラのマリア」一人になってしまっている事。また主の知らせを受けたのに三人の婦人は「だれにも何も言わなかった」のに対して9節から後では「マグダラのマリア」は「人々」に「知らせ」ている。また細かいことを指摘しだしたらきりがないほどにこの二つの部分はかみあっていない。註解書によっては、その註解書が相当な学問的権威をもったものであっても、もはや9節から後は問題にしていないものもあるほどである。
 イエス・キリストが復活されたのは「週の初めの日」とあるためにキリスト教は、元々ユダヤ教のナザレ派であり週の最後の日、土曜日を安息日としていたがそれを改め日曜を主日として礼拝するようになった。
 日曜日が復活の日であるため三日前の金曜日がキリストの十字架の処刑の日となり木曜日が最後の晩餐をした聖木曜ということになる。
 言うまでもなくイースター復活祭はキリスト教にとって最も重要な祝祭日である。イエスキリストが人類の罪を贖う犠牲となって十字架につき、そして復活してその栄光と贖罪のしるしを現されたことを記念する日だからである。この祝祭日が主日に行われるように定着したのは紀元2世紀ごろである。それまではユダヤ教のしきたりに従いニサンの月の14日の過ぎ越し祭に復活を記念していた教会もあった。キリスト教が教会組織として成長するにつれ、この祝祭日は「パスカ論争」といわれる事件等で現在の主日に祝われるようになった。復活祭をいつ頃から「イースター」と呼ぶようになったかは定かではないがその名の由来は意外に異教のものであることはあまり知られていない。「イースター」はゲルマン神話の女神「エオストレルン」または春の名月「エオストレ」からきている。イースターエッグも死からの復活の象徴という説明がよくなされるけれども、もともとはこのゲルマンの祭りの習慣だったし、「イースターバニー」うさぎはゲルマンの多産祈願の象徴であった。
 今日は世界中でこのイエス・キリストの復活を記念する復活祭の礼拝が行われている。日本でこそマイノリティーな宗教であるけれども、世界人口の四割がキリスト教であるからそれこそ今日は世界の祭典の日ということになる。
 ところが、特にキリスト教があまり定着していない国ではこのイエス・キリストの復活という出来事ほど、荒唐無稽で信じるにはあまりにハードルの高いものはないのではなかろうか。小さい頃から教え込まれていればそれを信じるようにもなるかもしれないが、そうでない場合、一人の人が十字架で処刑され三日の後に甦ったというのは、信じるほうが奇跡的といえるだろう。そして、その点こそがまさに今日の聖書箇所を含め四つの福音書が、それこそ奇跡的に一致して主張している点であることは見逃すわけにはいかない。そもそもイエスの伝記のように勘違いされている福音書は実は典礼書である。書かれた年代も紀元60年から1世紀の間という長い時間、しかもイエス・キリストの処刑が起原30年頃であればもう一世代も二世代もたってしまったから書かれたものばかり。福音書記者たちの書いた場所や年代、状況、そして用いた伝承がちがっているから福音書によってその内容がおのずとかみ合わないし、そこに歴史的伝記を求めるならば相互に矛盾しているためにその信憑性の無さにがっかりすることになる。今日の復活の物語にしてもマルコ書では三人の婦人が墓に赴くマタイ書では二人の婦人、ルカ書では3人以上の婦人でその中心的な三人の一人の名前が違う、ヨハネ書ではマグダラのマリア一人である。一番大事な復活の物語がこんなふうではと思うかもしれない。しかし、この食い違いこそがまさに歴史的な裏づけになってることは意外に気付かれていない。これだけ相互に矛盾しているのだから復活物語は作り話であるという主張もできるわけだが、これだけくいちがいながらもこのかけ離れた四つの福音書がピタッと一致して主張しているのはイエス・キリストの遺体がおさめられた墓に行ったのは「朝」であり、「墓」は「空」であったという点なのだ。
これだけ経年があり、時代も場所も背景も違う中で書かれた書物なのに、この点に関しては不思議なほどに一致している。一つくらい別の復活の仕方が出てこなければ逆におかしいくらいの問題なのに、この四つの福音書の一致は、その真理の底深さに畏れを抱くほどである。「空」の「墓」これほど奇妙な光景はないのではなかろうか。中からイエス・キリストが出てくるとか、なんとかしてくれればもっと神話的だったのに、福音書の中であれだけ荒唐無稽な奇跡行為を詳細に記されているのに、復活の物語になったとたんに「空」の「墓」という、無言の勝利宣言が私たちに言い渡されるのである。まさにハレルヤだ。そして最古の福音書マルコ書の最後の部分はもっともっと私たちを神秘と真理の世界に引き込んでくるマグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメと後の教会の中心的な立場になる婦人たちはこの「空」の「墓」と言う現実の前に「震え上がり、正気を失っていた。そしてだれにも何も言わなかった」のであり、そこでこの福音書はエンドとなっている。たしかに、続きがあったのが損なわれたとか、書きかけだったとか仮説はたてられるけれども結果としてこのような終わり方になったことは主の読者に対する介入があるだろう。即ち、主イエス・キリストの死からの復活というのはただでさえ常識としては到底受け入れられない話であるのに、私たちに与えられのは「空」の「墓」というモチーフ、そしてそこに直面して逃げ出す証人たちという極めて常識的な物語なのだ。この福音書のエンディングは2000年近く経過した今の私たちを、2000年前の「空」の「墓」の前に連れ戻すのである。そして復活したイエス・キリストは姿なき復活者として私たちの人生に歩み寄ってくる。そして自らを罪からの救い主として私たちの口には言すことの難しい秘密として経験するのである。死からの復活など有り得ない事が、不思議な真理として私たちの人生に救いと希望の現実となって現れてくるのである。あとは体験するだけである
by qpqp1999 | 2009-04-14 21:54 | キリスト教