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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

四旬節第5主日礼拝説教 ヨハネ福音書12章36~50節

四旬節第5主日礼拝説教 ヨハネ福音書12章36~50節
 この箇所の最初の部分を読んでみると、途中から突然はじまっているかのようだが、実質、この節36節bから43節は2章からこれまでの総まとめである。だが、その内容はこれまでの苦労が水の泡になってしまったというような内容になっているところが特徴的である。ついこないだまで熱狂的にイエス・キリストを「なつめやしの枝をもって迎えに出た」「大勢の群集」はいなくなってしまうのである。
 ヨハネ福音書ではイエス・キリストがエルサレムに迎えられた時、「大勢の群集」の歓迎振りに、イエス・キリストと敵対する「ファリサイ派」の「人々は」「見よ、何をしても無駄だ世をあげてあの男について行ったではないか」と嘆いている。そのくらい、イエス・キリストの当初の人気は凄いものだった。それが一週間もたたないうちに人気はなくなり「大勢の群集」は「殺せ殺せ十字架につけろ」と言うように変わってしまうのだ。
 確かに人の評判や人気というもの、世論というものは意外に簡単に変わってしまうことは様々な歴史が証明している。また、私たちの個々人の付き合いにおいても、ついこないだまで親友であったのが、ささいなことで絶縁状態になることはよくあることである。人の移り気の展開の大きなことといったら例にことかかないものである。私自身も性同一性障碍であることを公にしてからというもの、それは散々な事になったものだし、多くの人は私との関係を絶っていった。それでも、尚、私と深いかかわりをもってくれていた人でさえも、何の理由かわからないまま、その関係を終えてしまった人もいる。そういう体験は誰でもがもってるものであろうから、その意味で最初の区分、節36節bから43節はより身にしみて読むことができるのではないだろうか。
 ヨハネ福音書の物語の流れでは、「群集」の期待に反して、「地に落ちて死ななければ」とか「私をこの時から救ってください」とか言い出すものだから人気が落ちてしまったということになっている。エルサレムの入場こそは華々しいものだったのが、一点して受難の色彩をおびてくるや人々はイエス・キリストから去っていったのだった。
 ここに四旬節、受難節における私たちのあり方も一つ示されているのではないだろうか。四旬節になると、私たちのために苦難を受けられた主イエス・キリストをしのび、また心にしっかりとおさめ、謙虚に自らを律さねばという風潮にキリスト教の中ではなっていく。しかし、ヨハネ福音書はそうであっても、尚、やはりイエス・キリストから離れ、イエス・キリストを否定する私たちの、できれば認識したくないあり方を改めて追及してくるのであり、私たちはこのヨハネ福音書の主張に心を開くべきであろう。
 記者ヨハネはここに預言者イザヤを登場させる。イザヤといえば、それはもう大預言者であるが、今日の箇所で引用されているイザヤ書6章のように「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕はでれに示されましたか」という嘆きの預言の成就を主張しているのである。つまり、私たちがどれほどにイエス・キリストから遠のき、否定している生活をしているかという現実を真摯に受け止めることこそ、四旬節、受難節におけるあり方なのではないだろうか。
 誰しも、自分の見たくないあり方に対しては中々向き合わないものであろう。もしそんなことばかりしていたら、それこそ精神的にまいってしまうだろう。だから人はできるだけ自分を色々な方法で正当化しようとするし、そうしなくてはいられないものなのだ。その姿こそがまさに罪の現実であり、ヨハネ福音書が示しているイザヤ書の預言の成就であり、イエス・キリストの受難の出来事そのものであることに気付かされるのである。
 人とは、どうあがいても、そういう存在であるという現実、ここに記者ヨハネはイザヤ書の預言の成就として鋭く福音の真理をつきつけてくるのである。この預言の成就はなにも紀元0世紀に起こった過去のことではない、今、この聖書箇所を読んでいる私たちに怒っている状態であることを、この箇所から聴きとるべきであろう。「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち返らない。わたしは彼らをいやさない」である。実は記者ヨハネが他の福音書よりも強烈にこの主を否定する私たちの姿を描くのには歴史的な背景がある。他の福音書の時代はまだキリスト教はユダヤ教のナザレ派として存続していたが、ヨハネ福音書の時代はヤムニア会議というキリスト教をユダヤ教の異端宗教として定め、シナゴーグ、社会共同体からの追放を決めた時期であり、多くのキリスト教徒がその事態に窮してキリスト教から去って行った時代なのだった。そのことについてヨハネは他の福音書よりもきめ細かく記している。特徴的で他の福音書には無い表現は「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言いあらわさなかった」である。社会や人からの絶縁や疎外という事ほどショッキングで傷つくことはない。だから人はみな、社会や人にこびへつらい主イエス・キリストを色々な理由や正当化を用いて否定するのだ。記者ヨハネはまさにそのような私たちに真の裁きを示してくるのである。
 叫ぶイエス・キリストは印象的である、「私を信じる者は」「私を遣わされた方を信じる」「私を拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が」「その者を裁く」と非常に強烈なメッセージを発し、グノーシスすれすれの二元論的追求を記している。
 四旬節、受難説というと『私たちのために主イエス・キリストが苦しみをお受けになった』というような認識が優先されがちだが、今日の箇所ではそのように主イエス・キリストを苦しめた、また今も尚苦しめているのはこの箇所を読んでいる読者だと追及しているのである。その真実がわかる時こそ、主イエス・キリストが「世を裁くためではなく、世を救うために来られた」という、あまりにも尊い主の惠みが与えられる時なのではないだろうか。
 この、ヨハネ福音書の、他の福音書にはない特種な、今現在の、私たちに起きている、イエス・キリストへの拒否という現実と、その現実に気付いた時の救いの惠みの奇跡が力強く示されているからには、私たちは残り少なくなった、この四旬節の一日、一日を大切にしていきたいと思うのである。
by qpqp1999 | 2009-04-09 14:25 | キリスト教