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牧師・漫画家・ミュージシャンの松本太郎のブログ


by qpqp1999

顕現主日礼拝説教 マタイ福音書2章1~12節

顕現主日礼拝説教 マタイ福音書2章1~12節
 クリスマスの降誕劇には欠かせない東方の三博士の物語。新共同訳では「占星術の学者」となっている。降誕劇に水をさすようだが、マタイ書ではイエスの父母はもともとベツレヘムに住んでいたことになっているのは意外に見落とされがちだ。占星術の学者は「家に入ってみる」とこれまた馬小屋ではないこと、またエジプトへの逃避行からの帰還が原因でナザレに住むことになった事も注目したい部分である。また、よく読んでみると、この「占星術の学者」の物語と、「ヘロデ」の物語とが本来は別の伝承であったことが伺える。わかりやすい点をあげるなら、「占星術の学者」は占星術によって来たのだからわざわさざエルサレムに寄り道する必要がないこと、またヘロデも尾行もつけずに送り出してしまうなど不自然なことがあげられる。
 マタイはこの「占星術の学者」の物語と「ヘロデ」のヨセフ伝承を自分の神学にのっとって書き記したらしい。
 薀蓄を語るならば、「東の方の」「占星術の博士」となるとペルシャかアラビアであり、おそらくは占星術の発達していたペルシャのマギということになる。実際、原文ではマギと書かれており、マギというのはペルシャのゾロアスター教の祭司のことである。実はこのペルシャでゾロアスター教が盛んになっていた時とヘブライの歴史は関係がある。バビロン捕囚からイスラエルを解放したのはアケメネス朝のペルシャであり、他宗教にも寛大でイスラエルの神殿の再建も許している。この時期、ゾロアスター教は非常にさかんであり、二元論の神学や、地獄の存在、救済の宇宙感などユダヤ教にも後のキリスト教にも大きな影響を与えたのでもあった。炎を拝するところから火教ともよばれるが主神アフラマズダーを中心とした宗教であった。紀元前3世紀にアレキサンダーによる遠征が行われ、アケメネス朝ペルシャは滅び、セレウコス朝となるがこの時点でギリシャ文化やインド文化と融合していくことになり、神殿や偶像を持たないゾロアスター教は段々と姿を変えていく。果たして、イエス・キリストが誕生した紀元前数年にこの宗教がどのような状態だったかは定かではない。マギはマジックの語源であり魔術であるが、ゾロアスター教の祭司たちは自己防衛的な白魔術しか行わないというのも特徴である。また占星術は当時の学問でもあったから、今日における星占いとはちがってもっと科学的なものとしてとらえられていた。だが、だからといって神秘的な評価は変わらなかったのも確かであろう。
 一方のヘロデ大王もまたユダヤの歴史で注目されるべき人物である。マカバイ独立戦争で勝利したイスラエルはハスモン王朝を開く。この官僚だったのがヘロデ大王の父であった。エドム人であって生粋のユダヤ人ではないヘロデがその王座に着くにはそれなりの実力と運が必要だった。そして、彼はついにローマ帝国と結びつくことでユダヤをローマの属州ではなく盟友として保つことに成功させたのだった。ローマのアントニウスからアウグストゥスに政治権力の移行が行われた際にもヘロデ大王は命がけの面会を行いみごとにアウグストゥスの信頼を得たのでもあった。しかし、その私生活は悲惨で、王位継承をめぐるヘロデ大王をとりまく状況は彼が愛してやまなかったハスモン王朝の血をひく王妃マリアムメとその二人の王子を処刑せざるをえなかったし、晩年には前者を告発したアンティパトロス王子も処刑しなければならなくなった。また健康もひどく害され、イエス・キリストの誕生する頃はかなり病気が進行して重症であったはずである。
 このような背景を考えると、この時期にイエス・キリストが誕生したというのはとても劇的であろう。しかも、その誕生を最初に祝うのは異郷の祭司たちであり、その誕生におびえ、抹殺しようとしたのがエルサレムだったことは、単にマタイの創作ではなく歴史における主の配剤であったことをひしひしと思う。
 マタイは二つかそれ以上の伝承を用いて独自の物語を作り出しているが、それ故に前述した矛盾が生じてしまっている。しかし、それは福音書成立過程の産物であり我々はマタイの主張することに目をむけるべきであろう。
 尤も際立っているのは異邦人異教徒が救い主を拝み、本来救い主を待ち望んでいたはずの救いを約束された人たちがそれを拒否するということである。それは今日の私たちにもそっくりあてはまることでもあり、キリスト教の一番特徴的な部分なのである。罪深ければ罪深いほど救いに近く、罪から遠のいていると思っている者ほど救いから離れているというものだ。また貧しければ貧しいほど豊かで、豊かであればあるほど貧しいということでもある。今年の新年をホームレスとなって迎えた解雇された人々がたくさんいるという。そうであるならば、イエスキリストの惠と希望とはその人たちのために用意されたものである。反対に楽しく暖かい新年を迎えた人々は、その幸せの分だけイエスキリストの惠と救いから遠のいているのである。このように言い切ってしまうとそれこそゾロアスター教の二元論になってしまう。そこで、マタイはミカ書の預言の言葉を自在に変化させて一つの目印をつくってくれている。「ユダの地、ベツレヘムよお前はユダの指導者たちの中で決して一番小さいものではない」という一文である。これは完全にマタイによる歪曲なのだが、だからこそマタイの神学が顕著に顕れている。わたしたちの信仰は貧しく、主に背いてばかりの罪人でありながら、それは決して一番小さいものではないとの約束である。そのように罪深ければ、それを見出すとき一番救いに近くなるのだ。そして「指導者があらわれ」る。私たちは、罪から発して主イエス・キリストに従うという新たしい道を与えられたのである。それは、「東の方の」「占星術の学者」に代表されるイエスキリストから最も遠い者たちにである。
 私自身を振り返ると、そこにあるのは失望と挫折と堕落だけである。おおよそ主イエス・キリストにお見せできるものは見当たらない。それは私の中に探そうとするからである。救いは私の中にあるのではなく、救いからはるか彼方にある私に対して、あたかもどこからでも見ることのできる「星が先立って進」むがごとくに、聖書を通じて私に呼びかけ、顕れ、与えられるのである。
 そしてそれを受け取るならば、あるいはその主イエスキリストの惠のうちに救われるならば、おのずと私の「牧者と」なられるイエスキリストについていくという奇跡が現実のものとなるのである。
by qpqp1999 | 2009-01-06 16:36 | キリスト教