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和歌山はどっちだ  

2013年 05月 19日

 「出会い」・・・
 いいえ、決して、「出会い系サイト」のことではありません。どうも日本全国的に、町内の人が出てきて、溝掃除とか草ひきとかするのを、日本では「出会い」と呼ぶ・・・。
 私は今、元の住宅であり、今はデイサービスセンターになっている自宅のために、この「出会い」に行ってきたむー!!!最近、高齢化が進み、この町内界隈では私が一番若い。もう50手前なのに・・・。さすがに、町内の皆さまも、溝掃除のために、重たいコンクリのブロックを持ち上げたり、鉄制の板を持ち上げるのは苦痛らしくて、「今日は天気予報では雨やったのに、みごとにはずれたな、かなわんわ」とおっしゃる。だったら、一層のこと、この面倒くさい、溝掃除止めましょうよ。とは、決して言えなかったが、町内の人々の負担になっているのは確かだ。
 出会いを終えて、やっとの思いでコンビニに駐車して、車内で朝食をとる。そしたら、自動車の窓をコツコツとたたく人がいる。見ると、火山が噴火した跡みたいなごついおじさんがいる。私は、いつでも戦えるように、気持と体勢をととのえてから、窓をあけると、おじさんは。
 「ここから和歌山に行くのにはどっちに、いったらええんや?」
と言う。そんなこと知るかよ、と思いながらも、「和歌山のどこですか」とたずねると「和歌山の魚市に行きたいんや」と言うので、「住所とか電話番号わかりますか?」と再びきくと
「それが、わからんのや、和歌山の魚市ということしか知らんのや」
 普通の人だったら、もう相手にしないかもしれないが、私は誠実に、iPhoneを出して検索してみると、住所やら、連絡先やら出てくるが、そのおじさんは、その情報には一切感心が無く、とりあえず、今、このクロスロードでどっちに行ったら和歌山に着けるのかと執拗にきいて来る。仕方ないので、カーナビでどこでもいいから和歌山県の個所をナビって、「ああ、とりあえず、この交差点を左です」と言った。そしたら、おじさんは「どのくらい、かかるかな」と言うので、ナビの到達時刻を見て、その時点で朝8時半くらいだったのだが、一般道で行くと到着は1時くらいです。と言うと、おじさんは「そんなに、かかるんか、ううーん、ありがとう」と言って、軽トラックの方に行った。軽トラックにはナビはもちろん搭載されていなくて、地図すらあるかどうか怪しい状態だった。しかし、荷台には、なぜか、しぶい藁みたいなのがしいてある。この人は一体何者で、これから何がしたいんだろう。だいたい、そもそもが、そんなアバウトなことで松阪から和歌山の魚市にたどりつけるものなのか、他人事ながら心配になったが、少なくとも、
わかやまのうおいちというところにしゃしんをとりにいきたいことだけはたしかだ・・・

# by qpqp1999 | 2013-05-19 18:39 | アバルト500 | Trackback | Comments(0)

聖霊降臨祭説教 ヨハネ福音書16章4~11節  

2013年 05月 19日

聖霊降臨祭説教 ヨハネ福音書16章4~11節
 聖書の最終書簡であるヨハネ福音書は、二元論に満ちている。今日の個所もそうであるが、ただし、この二元論は教会史に位置付けられてはじめて、意味を持ってくる。つまり、ヤムニア会議で、もはや「ユダヤ教キリスト派」は異端になり、ユダヤ教ではなくなってしまった。そのため、シナゴーグの出入り禁止になり、それはユダヤ社会からの追放を意味した。まだ、ローマ皇帝ドミティアーヌスのキリスト教迫害の本格化という波風の中で、生きることを強いられた、キリスト者たちのための福音書であり、その際に、そういったキリスト教を否定する世の在り方と決別する必要があった、そのことをまず、考えておかなければ、ヨハネ書は読み間違えてしまうのだ。
 そこで、聖霊降臨際の今日、私たちはこの聖書個所から何を与えられるだろうか。「聖霊」に重きを置く、「福音派」の教会ではこの「聖霊」にかんしては私からみると、ヒステリックなまでに重要視されているものの、実際のところ、ルター派の教会なんかの場合は「父と子と聖霊との御名によって」と祈っており、「聖霊」は「父なる神」「子なる神」と同列にならなければならないのに、「聖霊」というキーワードを出すと、何やらオカルト的な偏見があるように、思えなくもない。では、この「聖霊」とは何なのか、話しを起こそう。
 今日の使徒書に選ばれている個所が、まさしく、ペンテコステの出来事で、舌みたいなのが弟子たちの頭の上にのっかったらしい。ここで言われている「聖霊」という単語はπνεῦμαプネウマであり、本来の意味は「風」とかそういう感じの言葉だ。対して、ヨハネ書の今日の個所では「弁護者」と訳されている単語が聖霊にあたる。それはπαράκλητοςパラクレートスであり、意味は確かに「弁護者」という法廷用語にもあてはまるが、単純に訳すと「援助する者」「協力者」といったところだ。こっちの方がプネウマより解りやすいと思うのだが、実はヨハネ書ではけっしてプネウマを軽んじているわけではなく15章を読んでみると、パラクレートスとプネウマを同義語として用いている。
 ところで、「聖霊」とは一体、具体的にどういうものなのだろうか。「霊」と言われるくらいだから、何か幽霊みたいな超常現象をもって私たちに関わるものなのだろうか。しかし、そんな議論は、はっきり言って下らないと考える。もし聖霊がそんな幽霊みたいな超常現象を発現するものだというなら、それでは、普通の人はあまり関係のないものになってくる。また、そのような事態がなければ「聖霊」の働きが無いと考えるのもおかしい。
 そこで、糸口を見つけようとするならば、前述のヨハネ書の書かれた時代のキリスト教の状況から考えると解りやすいかもしれない。つまり、キリスト教徒であるということは、社会的に否定される状態にあったということだ。現代日本のように信教の自由があり、堂々とキリスト教徒であると言って、生活できる。また、どうかすると、キリスト教徒というのは「道徳的」であって、どうかすると、レベルが高すぎて、敷居が高いとすら勘違いされてしまいそうな一面を持っている。しかし、同時に、現代日本においては、たしかに、ある程度、「教養」みたいなものがある人は牧師のことを「先生」と呼ぶことすら知っている、一方で、「アーメン教か」と下げずまれることもある。要するに、「特別視」されているということでは、案外、ヨハネ書の書かれたキリスト教教会に、命がけとまではいかないが、近いものがあるかもしれない。そうやって、考えると「聖霊」というものを考える糸口が見えてくるように考えるのだ。
 つまり、ヨハネの教会は危機的な状態にあった。そこに、イエスはいなかった。という事実である。イエスが不在の中、世の中から厳しい差別を受けている状況にあって、どのようにして信仰を保つことができただろうか。しかし、ヨハネはその状態をより積極的に書く「私が去っていくのは、あなたがたのためになる」である。これは、実際のヨハネの時代の教会にとっては重大な事だった。しかし、「私が去っていかなければ、弁護者はあなたがたのところにこないからである」と言う。つまり、イエスが不在であるということは、その局面において、「聖霊」の働きがあるということを力強く語っているのである。キリスト教はやがて転機を迎える。紀元312年のミルウィス橋の闘い、から起きた、初めての十字軍、つまりコンスタンティヌスの闘いは十字架を掲げて進軍する、キリスト教をはじめて前面に掲げた闘いであり、それに勝利した、それ以降、ローマはキリスト教国家になっていき、最終的にはキリスト教にその座をのっとられ、今日に至っているのだ。なんという逆転だろうか。私は、この歴史の動きについて、主の働き、イエスの働き、聖霊の働きというものを考えないではいられないのだ。
 そのような歴史の事態を預言するかのような個所が教のヨハネ書の発している部分である。つまり、終末論である。終末というと、まるで、天変地異が起きて、死人が蘇ったり、生きたまま空中に飛ばされたりと、無茶苦茶な状況を想像してしまうが、そんなものは迷信以外の何者でもない。実は、ヨハネ書が発している通り、終末というのは、今生きている、私たち、一人々人の生活の座の上に起きているものであることを、ヨハネ書は描いている。「その方が来れば、罪について、義について、また裁きについて世の誤りを明らかにする」と断言してはばからないのであった。「罪についてとは彼らがわたしを信じないこと」とあるが、この部分は注意深く読まねばならない。普通に読んでしまうと、イエス・キリストを信じないことが罪みたいに錯覚してしまうからだ。もちろん、イエス・キリストを信じることは大事だが、このコンテキストで語られているのは、イエス・キリストを信じることが社会的に悪だとされていた時代であることを考えなければならない。つまり、イエス・キリストを信じるというのは、一般的に言う、信心のことではなく、その信仰告白によって、生活そのものが危うくなるような状況にあってもイエス・キリストに託すということである。信じると訳されているπιστεύουσινピストゥースィンは「託す」というような意味である。つまり、罪というのは、ここでは完全に信仰の問題になっていて盗みをするとか、なんとかではなく、今、目の前に立ちはだかっている逆境に対抗して、己の人生を前進させることが問われているのでり、その前進する根拠はイエス・キリストが「弁護者」「協力者」を送っていて下さるということに「託して」進むという極めて実存的なものなのである。かくして「聖霊論」はヨハネ書にとっては、このようにして、実存的なものになる時はじめて実現することが示されたのである。

# by qpqp1999 | 2013-05-19 12:10 | キリスト教 | Trackback | Comments(0)

私の家  

2013年 05月 18日

 私が両親の実家に住むようになって数年。あっという間に、家のリビングルームはギターだらけになった。それでも朝に何かに取りつかれたように床を拭きまわる母、にギター倒されて、壊されたらこまるので、大事なギターは楽器屋さんみたいに壁につるしてある。実際、父親は私のヒートホークギターを倒して壊してしまって、製作元のESPに頼んでも、「ああそれは、特別な樹脂でできているので、われたら無理ですね」と言われて絶望したものだった。しかし、従兄弟が化学繊維専門家だったので、奇跡的に治してもらえた。今でも、まだシンナーみたいな匂いがする。
 ギターの次はフィギュアだ。3万円もするワンダーフェスティバルでしか手に入らない球体間接人形が、二体、つまり6万円分が毎朝、母親にめちゃくちゃにされて、私がきちんとポーズ決めて立たせてあるのに、阿波踊りしてるみたいな状態になってしまうむー。
 そんなのは、いい方で、私が気に行って、デスクトップに飾ってあったはずのファイヤーボールドリュッセルがいつの間にか、いなくなったと思ったら、なんかケースみたいなのに押し詰められていたむー。対抗するためには手段は一つしかない。百金で売ってる壁に取り付けられる台にのせて、綺麗に飾ることだ。こうすれば、母親の掃除にまきこまれて、パーツがなくなったり台座が亡くなったり済む。
そうだ、さっそくファイヤーボールドリュッセルを飾ろう。

# by qpqp1999 | 2013-05-18 17:53 | フィギュア | Trackback | Comments(0)

べた  

2013年 05月 17日

 私は幼少の頃漫画を描くのに、コマワリをするのが苦手だった。そしてベタ塗りをするのが苦手だった。正直言いうといまでもそうだ。よくもまあ。講談社のモーニングで描いていた頃は、よくぞコマワリをやってのけ、べた塗りをやっていたものだと思う。
 しかし、CG技術の特化した昨今、コマワリは漫画用ののソフトウェアでできるし、ぺた塗りは自働選択ツールで簡単にできるようになった。そんなさ中、「聖母マリア伝」を描くべくリサーチをしていると、色々なことに戸惑ってしまう。たとえば、みんながけっこう、普通に言っている「石撃ちの刑」はそれは想像をはるかにこえる、悲惨なものだった。尤も、私が観たのはタリバンのやっている石撃ちなので、ユダヤ教の石撃ちとは違うんだろうなと思うけど、そのあたりを明確にしてくれる資料がないので、どうしようもない。とりあえず、被疑者は、下半身を穴に埋められ、でっかい石を投げつけられて死ぬということなのだろうが、使徒言行録によればステファノは別段下半身を埋められていないところをみると、ユダヤ教での石撃ちは、基本そのまんまだっただろうと想像される。
 そこで、私が漫画に持ち込みたいのが 「パンテラ伝説」 というものだ。簡単に言うと、ローマ兵による強姦によってマリアは子供をはらんでしまったというものだが、この パンテラ ・・・・。ヘビメタのバンドが同名で、こっちの方が有名になってしまって、私が知りたいと思っている 「パンテラ」 に関しては、ネット上ではほとんど流通していない。そこまで。マイナーなのか・・・。と逆にがっかりする。とにかく、一話は石撃ちとパンテラ伝説の附箋になるので、大事なところだ、リサーチを徹底したいと思う。

# by qpqp1999 | 2013-05-17 19:15 | 熱帯魚 | Trackback | Comments(0)

松阪牛  

2013年 05月 16日

 松阪の取り柄といったら、松阪牛、本居宣長、蒲生うじさとくらいしかないのだが、この松阪牛、意外にハードルが高い。なにしろ値段が高い。松阪で真っ先に牛となると和田金になるのだが、私は産まれてこのかた、この和田金にはコマ切れしか買いにいったことしかない。
 個人的には和田金より牛銀の方が好みで、牛銀には何度か行っている。また、三松になってくる。しかし、和田金にはまだ行ったことがない。松阪にこんなに長く住んでいるのに・・・。
 今日はやっとのことで漫画の原稿を仕上げて編集部に送った。その後は私の母が、肉を食べないと体に悪いということだったので、松阪の一升瓶に行ってきた。
まずはサーロインから入って、ハラミとかタンとかに以降していく。この過程が焼肉の楽しみなのだむー!!!
 運転は88歳の父がしてくれるので、遠慮なくビールを呑める。というか、この一升瓶には牧師館から徒歩2分のところにあるので、自動車は必要ないのだが、たかが数百メートルであっても、座って移動できるというのは、いいものだ。さてと、ピアノのレッスンも日を稼いだし、いよいよマリア伝のネームと本描きを明日はしよう。ここで、言っておかなければならないが、私は「不倫」に関して、特に女性に対してユダヤ教社会は厳しく、石打ちの刑、つまり、死ぬまで石を投げつけられるシーンを描こうと思っていたのだが、先日購入したグローでナザレ村を見てみたらとてもじゃないけど、石打ちが行われるような場所ではなかったことに気がついた。そこで、別の場所にマリアが旅行に行っていて、そこで偶然石打ちの刑を見ることになることにしようと決めたのだった。
 よーす。明日はネーム描くぞおおおおおむー

# by qpqp1999 | 2013-05-16 21:06 | グルメ | Trackback | Comments(0)

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